2012年01月05日

渋谷ミツバチプロジェクト その2渋谷のビルの谷間の「養蜂場」、永井伸一さんの簡易果菜栽培システム

12月20日には、改めて渋谷ミツバチプロジェクトの実行委員長佐藤さんをたずね、渋谷駅すぐそばの「養蜂場」を案内してもらった。

まずは、渋谷駅南口から246号を渡って徒歩1分の佐藤さんの事務所(店舗)でお話を伺ってからいよいよ養蜂場へ向かうと、「桜ヶ丘」の地名どおり、桜通に桜の並木がある。
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この、桜並木が、ミツバチプロジェクトの始まりだった、という。

この地に不動産店を開業した佐藤さんは「NPO法人渋谷さくら育樹の会」に参加して、桜街路樹の保護育成や街づくり活動を行っていた。その一環として開催した会合でたまたま、都心でミツバチを飼うプロジェクト第1号の「銀座ミツバチプロジェクト」の話を聞いたのがきっかけ一年ほどの準備期間をかけて昨年春から、渋谷のど真ん中で、しかも自分でミツバチを飼い始めることになったのだ。

渋谷駅から徒歩1分の佐藤さんの事務所(店舗)から、ほんの20秒ほど、飲食店などの密集した繁華街だ。
佐藤さんはとある居酒屋さんに入っていった???
いやいや、居酒屋さんに入ったのではなく、居酒屋が入居する建物に「養蜂場」はあったのだ。
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建物はけして大きくなく、背も高そうでない。
エレベーターから階段を一層登って、屋上へ出た。
ん〜〜〜???
狭い屋上にプランターがいっぱいで、この季節にもかかわらずまだ緑が多い。
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都心の養蜂は屋上緑化も兼ねているのだ。
それにしても狭いぞ〜、歩くのにプランターを避けて歩かねばならない、のだ。

屋上や都市緑化のための栽培システム。もうシーズンオフということなので、であろうか、ちょっとあちこち剥いたりしている?ようだ。
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獨協医科大学名誉教授の永井伸一さんらが開発したものらしいのだが、経緯などの詳細はつまびらかにしない。
230日ほどもの長期有効な(緩効性、てことね)基本肥料(鶏糞灰+コーティング化学肥料)と、給水タンクから自動で給水できる給水テープを使った簡易給水システムと、を用いて根の生育空間(土壌容積)が小さくても、農薬要らずでプロ並みの生育が出来るとのこと(@_@;)
いったん小さな空間に根を張らせてある程度生育させ(栄養成長)、その後再度発根させることで生殖成長を進め、結実させるものらしい。
残念ながら内容的にも詳細は未詳であるが、どうも屋上など土の少ないところでは有効なようだ。

現にこの屋上でも、12月も下旬というのに巨大な唐辛子がまだたくさんの実をつけている(@_@;)
(都心はあったかいということもあるかもしれない)

小さなビオトープもある(@_@;)
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ぐるっと見回して、ちょっと向こうにあった、養蜂箱だ(*^^)v
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この都心のビルの谷間のような狭い屋上が「養蜂場」だったのだ。
驚き、怪しみ、おそるおそる近づいた。


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2012年01月02日

渋谷ミツバチプロジェクト その1蜜絞り

12月17日、青山国連大学前のマルシェジャポンファーマーズマーケットで、渋谷ミツバチプロジェクト佐藤勝さんたちが蜜絞りイベントを行った。
12時ころ会場に到着。
すでにたくさんの人で賑わっている。
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混雑する中を、ミツバチプロジェクトの出店をさがすと、会場一番奥のカフェカーが並ぶ真ん中あたりに、佐藤さんがいた。
巣枠をもって今まさに蜜蝋をこそぎ採ろうとしている。
蜜絞りはまさに始まったところだった。
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ミツバチは木製の巣枠の中に自分で巣を作り、せっせと蜜を入れ、羽で扇いで水分を蒸発させる。ひとつの巣に蜜がいっぱいになると、蜜蝋でいちいちふたをする。ミツバチにとって蜂蜜は大事なもの、なのである。
佐藤さんが、湯で温めた蜜刃で蜜蝋だけを少しずつ切り取り削り取り、こそぎとって、蜜がとりだせるようにふたを剥がしてゆく。
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蜜蝋の下からは、とろとろの蜂蜜が顔を出す。
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裏側も剥がして、一枚完了だ。
もう一枚も蜜蝋を剥がしていよいよいよいよ密絞りに掛かろうというときに、人が集まって通行の邪魔になるというので解会場の一番端まで移動した^_^;

気を取り直して、佐藤さんが、蜂蜜だけになった巣枠を日にかざして見せた。
ほら〜、金色でしょ〜〜!♪
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金色に輝く蜂蜜に、多くの人から歓声が上がった。

渋谷ミツバチプロジェクトでは、効率よりも質を重視し、ほぼ3分の2ほどまで巣穴に蜜がいっぱいになってふたがされるまで待つ。通常は巣枠の3分の1ほどの巣にふたがされたら取り出して絞るのだ。長期間保存された蜂蜜はより水分少なく、高濃度の濃厚な蜂蜜となる。

黄金色、というより鬱金色というか、橙色からさらには赤銅色に近く輝く木枠のの蜂蜜は、濃厚さの証だ。

きれいになった黄金色の巣枠を簡易な遠心分離機にセットする。
蜜絞りは遠心分離機で行う。
巣ごと袋に入れて文字通り絞ってしまうやり方もある。
遠心分離機のほうがいくらか近代的に見える、かな(^^ゞ
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巣枠2枚を、たてに差し入れて固定する。
後はハンドルを回すだけだ(^^♪
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ハンドルを回すと、中の巣枠もぐるぐる回り、遠心力で蜂蜜だけが外側に飛び出してくる。
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回し始めると、とたんに芳香が立ち込めた。
細かな粒となってちぎれた蜂蜜の飛沫が周りの金属板に飛び散り、もっと小さくちぎれた蜂蜜が見えるか見えないかの細い繊毛のようになって空中を飛んでいるのだ。

糖の甘い香りが広がり、鼻の奥にも、皮膚にも髪の毛にも衣服にも染み込んで行くようだ。
甘い匂いに酔いながら参加者が交代でハンドルを回した。

10分ほどの間に、巣枠2枚から相当な量の葉蜂蜜が搾り取られた。

自然のままの蜂蜜であるから、無論そのまま何も手を加えずにいただける(^^♪
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すぐにその場で試食会が始まった。
無償で入手したたくさんのパンの耳を手にたくさんの人が並んだ。

わたしも、たっぷりの蜂蜜を載せて頬張ると、すっきりと混じり気無く、しかも濃厚な自然の甘みが体中に広がった。
佐藤さんにおねだりして、おかわりした(^^♪

     ※     ※     ※

■一般社団法人渋谷ミツバチプロジェクト  
  東京都渋谷区桜ヶ丘24-2-1
  Blog:http://ameblo.jp/shibuya-328/
  Twitter:http://twitter.com/#!/SHIBUYA328




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2011年04月24日

食育の基本から自律分散型ネットワークへ、21世紀定常型自律社会へ〜食の安心・安全と、自律のための走り書き的メモ書き

1食とは何か〜

「いただきます」は「いのちをいただきます」であること
人間は自然の一部として生まれ育ち老いて死に、自然に帰る、がいのちというものを持っている。いのちあるものは他の命を「食べ」て自らのいのちを育て最後は死んで他のいのちの「食」となる。
食とは命あるものの根源であり、自然の中の一つの異和である。

循環=共生が人間のあり方・自然のあり方〜食もいのちも循環する

  1食物連鎖=病気や害虫と戦う強い力がないと、良く生きることができないし、よく「食べられる
   こと」もできない⇒連鎖が乱れる。※人間は自然の中にある。
  2競争=排除は非人間的・反自然的 
    仲間で共に分け合い助け合うのが自然〜顔の見える共生共同体
     弱すぎる人間、成長期の長い自律できない人間(受苦的存在)
    市場は個人化(競争)、抽象化(貨幣万能〜遠隔化・システム化)
     利潤のために効率追求
     ⇒低コスト化:大工場・大量生産・化学農薬・薬品使用・食品添加物・非人間的労働
     ⇒循環しない食と命
   
市場社会が食を見えなくして、わたしたちから遠ざけて、いる。

2食育とは何か

食の安心安全とは  
  自然の内に生きる人間は、自然の有機的身体としての身体を自然性のうちに
  回収すれば、自律的に振舞うことができるということ。
  そのための実践能力を身に着けるのが食育。

栄養と食品の理
  食材を知る→旬、栄養、上手な食べ方、美味しい食べ方

好ましい食事の実現・回復
  家族=共食共同体の維持  旬の自然の食材、非工業的な手作りの食を家族揃って食べる
  自然と人に感謝する いのちを食べていること、循環・共生すること

自然の中で生きる 工業的な食を避ける

3好ましい食事の阻害要因   
1) 栄養低下
参考 http://e-yasai.seesaa.net/article/8955507.html

栄養低下の理由は北海道立農業試験場によると
@生育の早い品種の導入
Aハウス栽培の増加
B旬を無視した通年栽培
C肥料過多による糖分減少
を原因に挙げている。
他にD流通時間の長さ、E調理(水溶性ビタミンc 
水に5分間で20%流失、1分茹でると26%。カロチンは
加熱により10〜25%失われる)もある。

市場流通の問題
現在の日本の市場流通システムでは、農家が収獲してから、スーパーなどの店頭に並ぶまで最短3日はかかる。
この間に水分ともに新鮮な味覚と栄養分も失われる。
 例)1日目収獲、2日目朝市場出荷、運送3日目大卸〜中〜小売店頭
すなわち、工業化〜商業化された食が、自然の食を蝕む

■栄養素年度別減少比較 (科学技術庁「日本食品標準成分表」による)
野菜  栄養素 1951年 1982年 2000年
にんじん  鉄分 2.1mg 0.8mg 0.2mg
ほうれん草 鉄分 13.0mg 3.7mg 2.0mg
大根  鉄分 1mg 0.3mg 0.2mg
りんご  鉄分 2.0mg 0.1mg 0mg

■「日本食品標準成分表」の初版(1950年)と5訂増補(2005年)を比較

[にんじん]
ビタミンA効力(IU) ビタミンC(mg)
1950年 13500 10
2005年 2530 4

[きゃべつ]
ビタミンA効力(IU) ビタミンC(mg)
1950年 50 80
2005年 12 41

[ほうれんそう]
ビタミンA効力(IU) ビタミンC(mg) 鉄分(mg)
1950年 8000 150 13
2005年 1170 35 2

2) 残留化学農薬・化成肥料・遺伝子組み換え食品〜市場化された食の問題

1工業化された食材
農産物・野菜は栄養低下に加え残留化学農薬残留化学肥料を含むとされ(舌にぴりぴりした感じ、渋み、苦味がある)、さまざまな病気、障害のもとになるとされる(発ガン、催奇性、免疫低下など)。       
さらに遺伝子組み換え作物は効き目の強くなった除草剤に堪えるよう遺伝子組み換え
基本的に高化学農薬・高化学肥料残留、さらに免疫低下・アレルギー反応増大〜どこまで怖いか分からない、ほどに怖い。
表示義務のない飼料、または植物性油脂、異性化液糖、果糖、アルコール、香料、でんぷんなどとしてたくさん使用されていると推測される。
日本では1600万トンのとうもろこしをアメリカから輸入
(遺伝子組み換え比率 とうもろこし 20%以上、大豆 60%以上)

畜産物・養殖魚 密飼い・遺伝子組み換え飼料・ホルモン剤・抗生物質・高ストレス
冷凍魚 抗酸化剤・発色剤

2工業化された食品
スーパーの商品、コンビニの商品、冷凍食品、ファストフード
量産低価格野菜 栄養低下+危険
量産低価格食肉 栄養低下+危険
安いお菓子 植物油など添加物〜遺伝子組み換え作物使用の可能性
食品添加物〜遺伝子組み換え食材・残留化学農薬・化学肥料
化学調味料〜舌にぴりぴりした感じ、免疫力・抗酸化力に影響あるはず
栄養の偏り 油脂・塩分・糖分過多、ミネラル・繊維不足
⇒食品の危険 O-157やBSEや発ガン性・催奇性の蓄積、免疫力低下・アレルギー反応増大、

3)食についての理解不足⇒食育の必要性・意義

家族崩壊にともなう調理経験(=知識・技術)、料理知識、食材知識の不足
市場化進展にともなう食の現場からの、人々の隔離
農業、畜産、漁労およびそれらが生み出す食品についての知見、体験不足、食の意味の認識低下
行政の食と農への無理解〜市場化推進にともなう無視・商業化・工業化推進

4)共食共同体の崩壊 〜再建の必要性

生存システムの崩壊、食育の崩壊(食への理解不足)
個食化、孤食化
栄養の偏り
食と農についての知見不足
安全地帯のない生活

4 食から社会へ、食育から自律分散型コミュニテ&アソシエーションへ、21世紀型社会へ

食の問題は、人間にとって根源的であり、また最終的でもある。個人的でもあり、社会的でもある。
もちろん社会全体のありかたと相即的関係にあるから、食を通して社会全体のあり方を市場万能から分散・自律した生存共同体やアソシエーションのネットワークへ変えていかねばならない。

1 市民皆農・自産自消の推進〜半農半○○生活、市民皆自然

いのちを実感する農・畜産・漁労経験と知見を市民が獲得できること。みんなが身近に自然と食物のできるプロセスに参加体験・体感する仕組みの大切さを本当に知るために、食の生産にすべての市民が参加することが求められる。
特に市民農園は、食の自給化(非市場化)にもつながり、お起きの市民が参加できる最重要課題といえる。
その他、地産地消野菜市・生ゴミ堆肥推進など・里山保全・森林保全・環境保全

2 食育を主旨とした料理教室などで食の思想と技術・知見を普及する 

思想 
食と向き合う姿勢の理解〜命を食べる〜食農一体
食の意味(「美味しい」の発見・食の喜び=生の喜び=自然との一体感、
最終的には自然の中に回収されるいのち)を知る

家族で手作りの食を食べること 
ともに命を共有する関係=共食共同体が家族であること。
また家族が、安心・安全な食を通して生存保障単位であること。
            
食材の知見 
食材の育ち方や特徴を知り、それぞれの固有な大切さや、より好ましい食べ方を理解する。
また食の現在〜工業化・商業化・市場化された食の現状を知る。
調理の経験・知見 食材の特徴、調理法の特徴を知り、実際に調理する体験を通じてより好ましい食の実践能力を普及する
                   
3 食の価値や大事さを伝えるアソシエーション・コミュニティビジネス・アグリビツーリズム・ネットワーク構築で「食の自律社会」へ

1)目に見える、地域内の「農・食=いのち」の循環モデルを形成、地産地消野菜市・地産地消食の宅配や食堂・生ゴミ堆肥推進など・里山保全・森林保全・環境保全活動のビジネスやアソシエーションで地域参加・コミュニティ〜アソシエーション形成、地域活性化へ

2)市民農園(畜産、漁業、林業でも)〜、地産地消のやさい・食材流通〜食材の命を生かす食育の推進〜食材の命を生かす食品食事の流通(高齢者向け宅配や食堂施設での地産地消と食育)〜生ごみ堆肥・森林保全などによる自然の循環推進〜アグリツーリズムなどによる広範な市民へ理解拡大
      
     ※     ※     ※

こうした活動を通じてコミュニティ(生存システム)の再建〜家族の再建、擬似家族(密なコミュニティ)の創出へ。

アソシエーション(使命協働体・顔の見える社会ネットワーク化)の必要〜公益活動協働体が連鎖して生活世界をネットワークして、コミュニティ・アソシエーション・市場社会を有機的に統合する。
⇒自律分散型ネットワーク社会を構築する。
その上で市場システムの領域を限定し、これと調和をとる。
市場は、今日、国家と結びついて貨幣的と身と権力を握っており、コミュニティ・アソシエーションに奉仕するべきである。
そして単一統合型志向の市場システムと、自律分散型ネットワーク社会が拮抗・融和する21世紀定常型社会(世界共和国)へ、とすすむ。

社会イメージ.jpg

         
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2011年03月14日

巨大地震その2 国民国家はどのように廃棄されるか 巨大地震に対応できない東電・鉄道・報道の解体状況

生活を守ろうとせず責任回避を図る東京電力

東京電力が13日夜、首都圏での計画停電の計画を発表した。
東電の供給エリアを5つのグループに分け14日(本日)から、順番に一定の時間帯のうちで3時間程度停電するというものだ。
5つのグループ分けは東電の送電ルートにしたがって分けられているが、極めて分かりにくい。
しかもそのグループに属する地域のうちどれだけの地域で停電になるのか、正確にどれほどの時間になるのかは明らかにされていない。
また第1グループと第2グループは一日のうちで2度の停電時間帯が設けられている。理由も主旨も判然としない。
官庁と企業の本社機能が集中している、という理由で東京都心部は除外されている。

また病院や福祉施設や、自宅療養者への情報提供も配慮も十分でなく、いかにも安易な計画のように思われる。信号が消える道路交通についても同様だ。

実に曖昧で、不安を惹起する発表だ。
停電処置が少なくて済むなら、できるだけ少なくしようという方針でもあるかもしれないが、生活と産業における電力の重要性を考慮するなら赦されない曖昧さだ。事の重大さと責任の重さを理解していないとしか思えないのではないか。
むしろ、予定を超えて停電等が広がった場合の責任回避を考えた、官僚的対応ではないかとも疑われる。

親方日の丸といわれる東京電力の内部の荒廃ぶりは、1999年茨城県のJCO事故についての、望月彰の詳細なレポートで告発されている。(望月はブントで68年闘争を担ったが、その後も一労働者として生きることをつらぬき、「しかし僕が体験してきた鉄は腐りきっています。原子力産業も腐りきっている。〜略〜上が言った命令は、どんなにおかしいと思っても逆らってははいけない。逆らえば次の受注がはない。そういうルールなんです」と語っている(荒岱介『破天荒な人々』p174、2005年))

こうした発表では当然、市民も企業も指示されたすべての地域で、最大の時間帯にわたって停電することを前提に対処せざるを得ない。
しかも発表は前日13日の20時過ぎである。
基本的には市場原理を生きる鉄道各社も企業も、敏感に反応し、慌しく本日からの多くの運転休止や操業休止の処置を行った。(彼らの運転休止や、操業中止はそのまま事業的に大きな減収である)
わたしたちも、指定の全地域で、指定の時間に停電することを前提に電池や食料を求めてスーパーや電気屋に並ばざるを得なかった。

にもかかわらず、本日、計画停電は第1、第2、第3グループにわたって行われず、第4グループに属する地域のどこかで17;00から19時までの時間のうちのある時間帯でようやく実施されたと発表された。(17時10分ごろ)
それでも、実際にどこで停電になっているのか把握していないなどと、噴飯ものの発表である。

生活者の生活を守ろうとか、産業経済を維持することに貢献しようというような気配は感じられない。

東京電力は、独占的一括的に電力を供給する「公益企業」である。
しかし、同時に戦後体制の中では官-財主導の支配共同体の中枢として「公益」の美名の下で手厚く保護され、莫大な内部留保をもつ「優良企業」であり社員の待遇も厚い。
それゆえ、JAL以上とも、かつての国鉄並みとも言われる親方日の丸体質(支配共同体の一員としての自己保存本能、隠蔽体質、責任回避体質、一部幹部による専制支配体質、下請け搾取体質等々)を濃密に保存してきたであろう。

同じく今次地震により発生した福島第1原発の事故をめぐる対応でも、情報を開示するのが遅く、説明も不十分で隠蔽・責任回避体質を遺憾なく発揮しているように見える。
一般マスコミは「危機管理が甘い」などとして批判しているが、そのように現れているのは、閉鎖的で前近代的な支配システムの残滓の現れであるだろう。

現代の生活と産業の,つまり社会全体の、エネルギーの基幹部である電力の維持管理は市民に開かれたものでなければならない。東京電力による独占的一括的で効率的な運用より、開かれた安全で目に見える運用が大事であるように思われる。

     ※     ※     ※

しかも、前提となる、電力供給状況の詳細は発表されていない(少なくとも簡単に目にすることはできない)。
発表された情報は以下の内容だけである。
○3月13日発表された3月14日の需給予測
 需要想定 4100万kW(18時〜19持)
 供給力 3100万kW
どれほどの供給努力がなされたものか判然としない。
木で鼻を括ったような対応とはこんなことであろうか。

それにしても、これをもとにしたという東電の計画停電計画には驚かざるを得ない。
夜7時の最大需要4100万kwに対して3100万kwの供給能力を持っているのに、昼間に停電してどうするのだろうか。
逆に夜のピーク時に平均25%節電すれば乗り切れるのに…。どれほど大口需要家と節電の協議をしたのであろうか。
安易で雑駁で、生活を守ろうとか、産業を守ろうとか言う意思は感じられない。親方日の丸の組織維持本能だけが動いているように思われる。

この情報も本日改訂された。
○本日改訂された14日の需給予測
 需要想定 3400万KW
 供給力 3300万kw

この、ずさんな管理状況はどういうことなのであろうか。
この数字になってみれば、さらに100万kwの節電で乗り切ることができるし、やむを得ず停電したとしても100万kw分で済むわけだ。昨日の段階でも、もう少し詰めた作業をしてから発表する能力があれば、混乱はごく少なくなっていたはず、である。

かつての支配共同体の残滓を引きずっているのだとしか思えない。この混乱を引き起こした責任は強く問われねばならない。電力の運用は根本的に変革されねばならないだろう。

     ※     ※     ※

これに対する鉄道会社の運行体制もまた、いかにもご都合主義的である。
東京電力の曖昧でずさんな対応に振り回されたとはいえ、JRも私鉄も地域生活を守ろうというような意思は感じられず、安易に郊外路線=生活路線を切り捨てたように見える。

     ※     ※     ※

報道各社の不勉強ぶり、取材能力の低さにもがっかりさせられた。
発表情報に頼るばかりで、断片的な情報と映像が何度も反復されるだけで、全体像や見通しは示すことができなかった。(独自映像は各社1本ぐらいずつであろうか)
中には、ヘリを飛ばしながら「この施設が何か分からない」などと詳細地図も持たずに飛んだことが分かる愚かなコメントもあった。
被害の全体見通しについても、莫大な数の死者が明らかなのに口をつぐんで、自らの責任で報道することをしない。
今後の復旧への展望や提言や、経済への影響の見通しや、についても海外メデイアが報道しているだけだ。

福島原発の事故についても、12日の段階でその重大さを認識していたのは在京TVで言えば2局位のものだった。また技術的理解についても十分ではなく、官房長官の記者発表以外にソースのない、垂れ流し報道ばかりが目立っている。

資質ある人材が揃っているはずなのに、日頃、商業主義の中で、研鑽を積む時間もないのであろうか。あるいは戦後体制にどっぷり浸かって、支配共同体に組み込まれてきた歴史から脱皮できないでいるのであろうか。

     ※     ※     ※

イライラが募ったので、珍しく自己解放することにした。
多少の誤解、書きすぎは、あるかもしれない、が。


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2011年02月03日

ごはんがあぶない〜FOOD,Inc.(フード・インク)〜市場システムに蝕まれ、政治戦略の道具にされる食

2月2日、渋谷のシアターイメージ・フォーラムで2008年制作の映画『FOOD,INC.』をみた。
P1001980.JPG food,inc..jpg

映像の力

Uzumakiの仲間に声をかけ平日だが、4人が一緒に行ってくれ、共通認識として、この映画をもつことができたことを大切にしたい。食の安心・安全と一口に言うが、その意味する水準や、現れる場面は多岐にわたり共通言語をもつことは、実際にはなかなか容易ではない。映画は映像という強い武器を持ち、共通言語の形成・熟成に大いに役立つ。

『FOOD,INC.』は「アメリカ食品産業の問題点に切り込んだ(ウィキペデイア)」と評される、ドキュメンタリー映画で、82回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、興行的にも成功を収めた、らしい。監督兼プロデューサーの、ロバート・ケナーが6年の歳月をかけて撮影したという。
その労は生々しい映像に結実しており、ばらばらに粉砕されてただの肉片となった豚や牛が巨大な処理施設の間を猛スピードで通過して食肉パックとなるシーンや、深夜に違法就労者たちが眠っている鶏を無機的な表情で「処理」するために捕獲するシーンや、巨大な食肉企業から強制的に高価な養鶏機器の購入を迫られ苦悩する「下請け」と化した養鶏農家の表情や、は映像だけでとても多くのことを語っている。
ともすれば深刻・残酷になりがちな映像をテンポよくつなぎ、最終的にはオーガニック・フードのよさを明るくおおらかに訴える構成も悪くない。それは、希望は、ないわけでも、ないのだ…とか細く歌っている、というようにわたしには聞こえる。
だが「歌」にした時点で、掌から砂が落ちるようになにかが滑り落ちてゆくような気がする、のも確かだ。それは「現在」という中途半端な時代の「限界」のようなもの、かもしれないと思う。

日本ではアンプラグド社が2005年制作の「ありあまるごちそう」と合わせて「食の社会見学」と銘打って2作連続上映する。
1月22日からはじまった上映は食の安全への関心の高さを反映してか、好調らしい。
余談だが、アンプラグドは昨年、和歌山・太地の「イルカ漁」の残酷さを告発した映画『コーヴ』の配給元ともなった。『コーヴ』は82回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞受賞作であるが興行的にはアメリカでも日本でも『FOOD,INC.』に及ばないようだ。

とうもろこしから世界をみる

さて、『FOOD,INC.』である。
アメリカのスーパーでは平均47,000ほどの食品が売られているが、その中身が本当はどんなものでできているか、どのように作られてできているか実際には良く分からない。それは食品業界がその実態を隠しているからだという。
しかし、材料を調べていくとほとんどの食品にはとうもろこし・大豆が使われているという。

ここからロバート・ケナーは、とうもろこしを軸にすえ、マクドナルドや独占的な巨大食肉企業を取り上げて、アメリカの食品業界の問題を指摘する。それは、食の世界の隠された実態を暴くだけでなく、市場化社会=近代の行き詰まりから逃れようともがく現代の世界を見ることでもある。

市場の独占企業の要求に応える高農薬高効率遺伝子組み換えとうもろこし

マクドナルドは、ハンバーガーレストランとして出発したが、コストも「サービス」もスピードも大幅にカットする「工業的システム」〜それはいわゆる「ファーストフードシステム」として世界の「市場社会」を制覇しつつあるが〜を導入して成功した。現在、マクドナルドは全米最大のポテトと牛ひき肉の需要家である。
マクドナルドの要請に応えて(であろう)、飼料にローコストのとうもろこしを導入した牛の体内では大腸菌が繁殖し、その結果猛毒性大腸菌O―157が生まれた。(牛は干草を食べると、体内の大腸菌が減るのであり、それで健康のバランスを保っている)その肉を使ったハンバーガーを食べた子供はO-157により食中毒を発症、12日で死んだ。
アメリカでは(そしてたぶん日本でも)マクドナルドのハンバーガーを食べるほうが、有機無農薬野菜を使って食事をするよりも割安に上がるという皮肉な事実が、安くて空腹を満たす食を求める人々を傷つけ死に至らしめたのである。

とうもろこしと大豆はベトナムの枯葉剤も作った米農薬メーカー(というか、種苗でも巨大メーカーである)モンサント社の、破壊的な威力をもつ除草剤農薬に耐えるよう遺伝子組み換えされたものが世界の大半のシェアを握る。大豆では2002年の時点で世界の62%が、とうもろこしでは同じく21%が遺伝子組み換えであり、その90%をモンサント社の種が占めている。今日では、たぶんもっと増えている。それはとうもろこしや大豆の生産コストを下げるためであり、その結果、たとえば、コストの下がったとうもろこしは人間の食用、飼料用、また加工食材として植物性油脂、異性化液糖、アルコール、香料、デンプン、果糖などに大量に使用される。
日本は、米の国内生産の倍に当たる1600万トンのとうもろこしをほぼ全部アメリカから輸入している。飼料や、表示義務のない加工食材には、遺伝子組み換えとうもろこしが大量に使われているというが詳らかにしない。(世界のとうもろこし生産量は6億トン。2億トンが主食用、飼料用が4億トンといわれる。アメリカは世界の4割2.4億トンを生産する)
遺伝子組み換え作物は、その出自からして大量の残留農薬と残留化学肥料を含み、「危険なはずだ」といわれる。残留農薬・残留化学肥料があるだけでも発がん性や催奇性(枯葉剤と同じだ)があるとされるのに加え、遺伝子組みかえ作物では、免疫力の低下やアレルギー反応の増大がマウス実験で示されている。本当は、どこまで怖いか、分からない、ほどに怖い、だろう。

市場システムを制覇した大企業の要求する低コスト・かつ大量のとうもろこしを作るために、大量の農薬と化学肥料が投入され、効き目の強くなった農薬に耐えるために遺伝子組み換えとうもろこしが投入されるという(市場社会特有の)「転倒」現象がここでも起きている。食も農も「工業化」され、蝕まれている。
わたしたちは、わたしたちの「食」の現場から遠く隔てられ、「食」を奪われているのである。

ホロコーストを再現する食肉産業

食肉についても同様の指摘がされる。
アメリカ食肉市場(精肉業界)は大手の4~5社にほぼ独占され、畜産はこれら精肉企業が主導権を握り、品種、飼育方法、使用飼料、機械まできめ、農家は「下請け」化し、ただしばらく「家畜を預かるだけ」という状況である。独占企業は利潤の最大化=コストの最小化を図り、遺伝子組み換えとうもろこし飼料を使用し、成長を促進し、病気にならないようにするためにホルモン剤その他の薬剤が大量に投与される。たとえば、通常90日かかる生育期間を48日に短縮され、しかも本来の2倍もの体重にされ胸肉ばかり大きくなった鶏は、ベルトコンベアに吊り下げられ、機械的に首を切られ、ばらばらに解体され、もののように無造作に扱われ、猛スピードで処理され、次の瞬間に「きれい」な包装をされて「商品」になる。
この大量処理のシーンの映像は、ホロコーストやジェノサイドを想起させる。
そこでは、「いのち」という概念はなく、鶏たちはただの「数」に過ぎない。「数」は、パックの重量に変わり価格という名の貨幣価値に変わる。貨幣だけが価値であり、主人である。
そこでは、労働者も命の感覚を失い、ただの数であり、あまつさえ不法就労者は低賃金で酷使され、会社の裁量で定期的に移民局に検挙される。ここでは人間は、安全からも、労働からも、協働からも、人間からも、「命」からさえも疎外されている。

かくて格安のマクドナルドは世界を制覇する。
貨幣価値が、世界を制覇する、といっても同じである。

「食」を取り戻すために

映像は速いテンポで繰り出され次々に多くのことを語り、ふいにオーガニックフードの礼賛へと変わる。
そして最後に以下の「食の安全のためにわたしたちができること」というメッセージが歌いだされる。

●労働者や動物に優しい、環境を大事にする企業から買う
●スーパーに行ったら旬のものを買う
●有機食品を買う
●ラベルを読んで成分を知る
●地産食品を買う
●農家の直販で買う
●家庭菜園を楽しむ(たとえ小さくても)
●家族みんなで料理を作り、家族そろって食べる

これはこれで至極もっともである。そのようにしたいと思う。
誰もがすぐにできそうに思える。
だが、本当に、そのようにできるだろうか。
できない理由があるから、今日の市場システムに蝕まれた食があるのではないか、と思えてならない。
できないとわかっているのにもかかわらず、できるかのように教唆するのは、欺瞞というものである。詐欺といっても良い。
貧困者は、安い値段で空腹を満たすカップラーメンやファーストフードを「自主的」に選択する。
当然である。
市場社会にあるものは貨幣に支配されて生活する!
貨幣収入の十分ある人はもちろんだが、そうではない貧困者や買い物弱者が、旬の有機の地産食品だけで生活できるのが当然のことではないのか。

大事なのは、スローガンではない…。
大事なのは実践である。
わたしたちは、市場原理の外に、貨幣の外に、生理的疎外の外に、「食」をすくいだす努力をもっと積極的に、つまり実践的にしなければならないのではないだろうか。

市場社会の成れの果て「戦争国家アメリカ」の食糧戦略と日本「革新官僚」の野合が農と食を破壊した、ということ

今日の工業化された食の淵源は、もちろん市場システム万能の社会のありかただが、戦争国家アメリカの世界戦略にも、同様の責任はあるだろう。
1950年朝鮮戦争勃発あたりから1960年代にかけて講和条約・日米安保締結〜改訂といった政治の動きと並行して、アメリカは国内の余剰小麦、大豆、とうもろこし、食肉(とくに牛肉)などを日本に最初は無償援助、途中からは輸出することとし、日本政府は、それらの農畜作物を自給することなく、アメリカからの輸入に頼ることとした。
国内では食料不足解消を計る時期であり、「食の西洋化」が喧伝され、官民一体となってタンパク質や油脂の摂取拡大が推進された。小麦は、学校給食に利用されることとなり、国産の米は給食から締め出された。愚かなことである、とでも書いておくしかない…。

アメリカは2度の世界大戦と朝鮮戦争により超高度経済成長を果たし、大衆消費社会が成熟しつつあり、日本で1970年頃から米あまりが表面化したように、農業生産物の過剰・価格低下という問題を抱えていたから、この際、余剰生産物の処理と、農家の保護・農業維持対策ができる、おあつらえ向きの1石2鳥と算段したものと見える。
また「食」を地域や自然に根ざした「生活世界」のものから、弱小国を(ソ連に対抗して)アメリカの傘の下におくための政治=軍事戦略の世界に「戦略物資」として組み込むという発想の具現化でもあった。その結果、大義名分をえたアメリカ政府は農家には莫大な補助金を出して、農家保護の美名の下に農産物を低価格誘導し、これを食糧不足の国に恵むようにして売り払い、政治的同盟を結び事実上支配するということをした。
これは、当時米ソ対立の中の政治戦略と理解されたが、今日では、政治戦略そのものがアメリカ資本主義の市場拡大戦略に他ならないこと、そしてそれは本質的には市場原理というものが強いる無限の拡大運動の発露であることは、明白であろう。

日本側は強いられた面もあったが、同時にアメリカ産のほうが安いものはアメリカのものをつかえばいい、という妙に開明的合理的な判断を(自主的・主体的に)したものがあった。戦犯にして日本国首相をもつとめた岸信介とその直系の官僚出身者たち、たとえば池田隼人や佐藤栄作である。
岸信介はその昔、「革新派」と呼称された内務系官僚のボス格の一人であった。岸ら「革新」官僚こそは、陸軍統制派と野合して軍-官主導の極めて合理的に戦争に生産力も生活も根こそぎ投入する体制、すなわち「国家総動員体制」=軍国主義体制を作り、東条と並んで権力を一手に握り、生活者を国民と名乗らせ、戦争へと煽り立てた張本人である。
岸ら「革新官僚」の生き残りは、封建主義の残存遺制(農村共同体システムのうちの支配システム)をそのまま産業を支配する構造(官主導の産業支配と会社の成長のために個人はあるという会社主義)に移し変えた「会社共同体資本主義」とも言うべき、支配構造をテコに「高度経済成長」をになったが、同時に農村には主食たる米の増産を強いて、アメリカ式機械化・高農薬・化学肥料農法を導入した。
その結果は、今日の農の解体の危機であり、食の喪失の危機、である。

映画では、モンサント社も、巨大食肉産業も歴代政権と親しかった、というような暗示的な言いかたにとどめられているが、もちろん、事態はそのようなきれいごとではない。アメリカが常に戦争をせざるを得ないのは、市場の拡大のためである。市場社会は自己増殖のための擬制として、戦争機械たる国民国家というものを現出させた。市場社会拡大=戦争国家の推進者には、モンサントや巨大食肉産業も、マクドナルドも、当然含まれる。
市場のなかでは、「貨幣」だけが市場の原理たるギャンブルの勝敗を決する神であり、「貨幣」のみで量られる「利益」が富のすべてである。
清貧と勤勉と自由を愛する清新な「プロテスタンティズム」の精神を持って、「未開」の市場を開拓してきたフロンティアスピリットは、「軍産複合体制」として、今日でも非市場社会の拡大のための戦争なしには生きられない「戦争国家」を作り出し、その中では、または更なる市場原理の純化を目指す「市場原理主義」を育てた。
市場社会の成れの果て、であるアメリカ国家は、市場の外部に対しては、依然として市場の拡張のために世界を市場原理下におこうとするし、内部でも非市場的な部分を容赦なく純化された市場原理のもとに組み込もうとする。

わたしたちは、「フードシステム」の向こう側に隠された食をこちら側に奪還するために、とても大きなものと戦わねばならぬ。そして、それは映画が示すような微温的な自己防衛的な戦いではなく、残酷なほど激しく戦いながら、しかし完膚なきまでに勝利してはならぬという奇妙な、非市場的な戦いである。
市場の戦いは、勝者と敗者を分けるためにある。市場の内部と外部の戦いは、勝者も敗者も生み出さぬために、言い方をかえれば勝利しないこと、すなわち敗北をもって勝利とするためにある、のだから。

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2010年10月26日

贈与の美学〜0歳からのクラシックコンサート

畑仲間の森井さんが、近頃畑に来ない。
どうしたかと思っていたら、成城ホールで225組+αの親子を集めた「0歳からのクラシックコンサート」を開くのだという。史上に類例がないのではないか。「コンサート」というよりもっと身体を使ったリトミック体操的なものなら容易に想像できるが。
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さらにおまけに「一人でこつこつ準備を」などとこの人らしくもなく地味目なことを言う。この人のプロデュース的才能は、掌で踊る雷同者を求めている。これは行かねばならぬ、と思った。
10月26日、「踊る雷同者」となったわたしはUzumaki仲間のチャップリンおばさんと水山さんと、ビデオや写真の撮影を手伝うという名目で押しかけた。

     ※     ※     ※

そもそも楽曲は(と書き出して、どシロウトのわたしは困惑している(-_-;))打楽器の身体性と、メロデイの持つ叙情性、そしてそれらが合わさって複雑な叙景性や物語性を併せ持つ。身体と脳のおく深くから湧出するように、それはわたしたちにやってきて、わたしたちを生かしたり困惑させたりする。それはある時、「うた」としてわたしたちに叙情し、「身体」としてわたしたちを原生的なものに還元する。
そのようにして生かされてきたわたしたちは、終に詩と音楽に対して批評を放棄しなければならいのではないか、という微かな不安と疑念を確かめに来た、のでもある。

     ※     ※     ※
会場に早めについて、準備にあわただしい森井さんから機材を受け取ってビデオのセット。
会場では、アルファキッズサロンの講師でもある出演者がリハーサル中。(一番贅沢な楽しみ方かもしれない、な)
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しかし、ACアダプターはないわ、液晶モニターは映らないは、とイベントに付き物の小トラブル(^^ゞ トラブルではあるが、それを何とか乗り越える楽しさが、「現場」にはある、かな(^^ゞ
開演時間が迫っても、会場のそとには長蛇の列ができていた。7〜8人ほどのスタッフで入場処理にあたっていたが300組600人近い親子の入場には予約確認、席確認、名札渡し、現金授受などで一組一分ほどかかるか。さらにはベビーカーの処理などもあって開演が遅れた。
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しかし、会場内では元気な子どもたちがここぞとばかり自由時間を楽しみ、楽器にさわったり動き回ったり。母親たちも、子を見守りつつ日常を抜け出した解放感なのかリラックスした表情で同じく自由時間を楽しんでいるように見えた。
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プログラムは「アンパンマンのマーチ」から始まって、まず子の知覚を心身からつかむ。剣の舞でピークの緊張が伝えられ、打撃のリズムの非日常的な「快」(つまりカタルシス)が措定される。
ピアノで少し緊張を和らげたあと、アフリカンな打撃が日常の時間の音の「楽」を広げてゆく。
ついで身体を楽器として使い、音と同化して、さらに心身的な「楽」が展開され純化されてゆく。
子どもたちはパーカッションには大盛り上がりで、目がきらきらしている。
カノンは母たちの「楽」を日常に押し戻す。
最後は(写真が切れている(>_<))デイズニーメドレーで全部を日常に納めてしまう。
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うまくできたストーリーだな。

演奏中でも子どもたちは自由に客席と段差のないステージを動き回る。
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マリンバに興味津々♪
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カメラの三脚の下(中?)に安住地を見出した子が場所を占領してわたしは一時撤退を余儀なくされた(笑)チャップリンおばさんが懸命に占領地返還交渉(?)をしてくれた。
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こんなきちんとしたホールでもう少し楽器を揃えて「中央アジアの草原にて」の弱起からの激しい転調や、「ボレロ」のリズムと旋律の交響や、ベートーヴェンの6番の転調の部分など小さい子に聞かせてみたいものだと思った。楽器が多すぎても、長時間になってもいけないけれど。

     ※     ※     ※

0歳児に生のクラシック音楽の楽奏を体験させるコンサートは知らない。
実際には、乳児・幼児を抱える子育て中の母親が主対象であるかもしれない。子育てのストレス解消、と言うような…。
しかし生まれ、育てられる子と生み育てる親の関係性は「音楽」の快楽性を媒介として、市場的な「交換」ではない一方的かつ連環的な「贈与」として心身論的に確証されうる、ような気がする。
われわれは一方的な「贈与」者である、すなわち無償の奉仕者であることに「美」を感じていたかもしれない。
親子は、したがって子育ては「人倫」における「贈与の美学」であるとでもいうような…。

若い親たちは、確証に満ちて生のエネルギーを充填させ、生々した目をして帰途についたように思える。

     ※     ※     ※

何はともあれ盛況で、大過なく終えられたことにお祝いを、そして走り回ったスタッフの皆さんにご苦労様を申し上げます。
森井さん、皆さん、ありがとうございました。

(森井さんは自宅を使って「わらべうた(アルファキッズクラブ)」というリトミックと食へのこだわりを導入した子育てサロンをやっている。)


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2010年10月14日

国民国家はどのように廃棄されるか〜尖閣をめぐるナショナリズムと「氷河期世代」の心情と論理

弱くなって来た「ナショナル」な心情

尖閣諸島をめぐる中国漁船の領海侵犯と海上保安庁巡視船との衝突時件をめぐって、またぞろ「強い外交」などという声高のナショナルな感情を主張する声が大きいようだ。
が、どうも力弱く長続きしそうもない。
力弱いが、世論調査では以下のような結果もあるようだ。
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  調査日: 2010年10月8日(金) 〜10月10日(日)
  世帯数:2047 回答数:1077 回答率:52.61%
  少数点第2位以下を四捨五入

NNNはこれを、小沢一郎への検察審査会の強制起訴決定も相俟って、管内閣支持率19%下落と捉えて見出しにした。が、小沢問題への不支持を加味してなお47%の支持があることにわたしは時代の大きな変遷を感じる。
衝突事件発生直後の、政府対応への支持率は確か10%台だった。
相変わらずナショナルな心情と言うものは激しいものだ。
が、そのあわられかたは、強さ激しさにおいて大きく弱まっているように見える。
(石原慎太郎はこれを、きっと、「衰弱」と呼んだりするのであろう)

多く人間は心情に曳きずられて、行動を起こす。
嫉妬は多くの人間に多くの善悪を問わない決断を強いてきた。
革命は論理によってのみではなく、多くはいのちをかけても革命を目指す革命家の倒錯的熱情と、現状変換を求める民衆の不平不満の心情的はけ口として、はじまった。
無論革命後の具体的展望などありはしないのに、である。
人間は、太古から、「いま」の心情的な幸福にみとれて「生」を投企、または投棄、する。
それは、国境と言うものに見とれてクニを作り出す倒錯した人間の共同幻想とよく肖ている。

「氷河期世代」と浜崎あゆみの悲惨と光栄について

われわれの近代は1973年頃から選択消費=ライフスタイルの時代に入りはじめ、1980年頃からは消費資本主義の段階に進み、1990年ころから急速に近代の意匠を廃棄し始め、ポストモダンへと、この頃、大きく舵をきっていたであろう。共同体によって個人が保護される時代から、孤立分断された個人が、自らを主体として自立的に他者と共同するような道筋を求めて、である。
確立された(されざるを得なかった)「個人」は「一瞬の開放」を夢見つつも、「やがて訪れる恐怖」について内省する能力をもつ。

※1998年19歳から20歳になる頃の浜崎あゆみは、「人が(一瞬の開放を)求めやまないのは/一瞬の開放が/やがて訪れる恐怖に/勝っているから」(『trauma』)と歌って、感性主義・心情主義への投企を内省している。
このころの浜崎あゆみは、苦渋に満ちた内省と孤立し分断された絶望と、共同性への再会への希望を歌う青春の詩人であり、そのことが時代を深く写し取っていたことで国民的詩人であった、とわたしは思う。そしてそれは全身をファッションとして「表象」化して「市場」に受け入れられたのだが…。
この世代(1970~1980年ごろ生まれ)には『氷河期世代』などと言うありがたくない言われ方があるが、しかしこの世代の人々は、生きる土台はクニや社会ではなく、分断され孤立した個人の内部にしかなかった、という自覚的認識にいたった最初の世代であるという光栄もある、であろうか。

このクニにおいては3度のバブルの崩壊を経て、2008年ごろ、ようやくアメリカ金融資本主義の自壊によって強いられるようにして覚醒が訪れ、「近代」の呪縛は根底的に崩壊し消え去った、と思われる。
同時に、そのことによってわたしたちは内包するナショナルな心情を捧げるべき現前する「国民国家」を持たない時代にはいった。現代ヨーロッパがすでに1980年代にそうであったように「坂の上の雲」(司馬遼太郎)のそのまた向こうには、「恐怖」が待っていると、内省し得るからである。

現在、とくに『氷河期世代』以降の世代において原共同体的なナショナルな心情は弱まり、あるいはあるのではあるが同時に内省する能力を持つにいたった「個人」が成立し、ニホン地域全体の多数を占めつつあり、個々人は内省を通じて別なものへ通じよう、と試みている、とわたしには思われる。

亡霊となった国民国家から生存共同体へ

国境が現れると、国家が急に成長する。あるいは必要なもののように思われる。
人種問題が起きると急にアイデンテティが問われる。
われわれの不完全な頭脳は、あるいは心情と精神はいつも現在性に曳きずられ、曳きずられながら内省する。
わたしたちはここでも、個と共同とに引き裂かれる。
引き裂かれるが、(危機が深ければ深いほど)わたしたちは遺伝子の命ずるところの、生存を維持する生命原理に立ち戻ろうと内省する、であろう。
国家が現れたとき、引き裂かれたわたしたちの内部では、すでに本質的は失われている国民国家ではない別の生存共同体が求められるであろう。

しかし本質的に廃棄された国民国家は、現実的な社会システムの上では目前の「領土」問題や「主権」問題にであって亡霊のように現れる。
非国民国家=共同体の総連合としての地域大連合政府はまだ成立しておらず、現行の過渡期政府は「国家」の処理、処分について、したがって目前の「領土」問題や「主権」問題についてまだ明確な指針を持たない。
それらは国民国家廃棄にともなって、同様に廃棄されてゆくものだからである。
資本主義市場社会の進行において歴史的な時間差がある「国家」間で国境廃止にどれほどの困難と煩瑣なてつづきを踏まねばならないか、は、先行するヨーロッパ共同体の試行が十分に示してくれている。
が、ヨーロッパは、同時に、国境を廃止することの可能性をも指し示している。
それは自由な諸個人による自由な連合が、なお連合であり続け、個人を無限に受け入れるような生存共同体として成立し続ける可能性でなければならない。
そして、その可能性の具体的な姿は、まだ緒についたばかりで、わたしたちの極東の小島および周辺にはスローガンの断片のみで、まだ像としてすら存在しないのだ、と思われる。


民主党現政権の「弱腰」には時代的社会的根拠がある、と言わねばならない。
(現にヨーロッパは、本質的な歴史意識的には二ホン地域の政府の「弱腰」を「賢明」と支持しなけばならないであろうしそのような意思表示もある。市場社会的には中国地域の巨大市場を失わずに、である)
今日のヒステリックな弱腰批判や人格攻撃のような政治言語はすべて死語である。
死語を語るものは、しかるべく例外なく礼節に見合った死を与えられねばならない。


    ※     ※     ※

※『trauma』につづく『and then』で浜崎あゆみは妙に元気に歌っている。

  不完全なまま
  生まれたボクラはいつか完全なものとなるために
  なんて言いながらlalala…

  悲しみも苦しみも何もかも分かちあえばいいんじゃないなんて
  カンタンに言うけどね そんなことできるならやってる
  いつまでも同じようなところにはいられないと言っていたでしょう
  陽がのぼるまえに二人してこの町出てみよう

もちろん、出ては行かねばならないことは明白になったのだが、行き先はない、のであった。にもかかわらずそこには「希望」のようなものが仮象されねばならなかった。
これはこの時代の困難をとてもよく象徴している、と思われる。
posted by foody at 11:17| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 農・食・状況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月27日

源治さんの新米 ホンモノの米「源治のコシヒカリ」を食べる

米に、人一倍こだわる源治さんの新米がとどいた。
※米については、もはやなんら深刻なものではないが、それでもちょっとフクザツな感情がある。
 米についての感情の整理、はこちらに書いた。
 米についての史的註はこちらにかいた。
 どちらも、いまだに生々しくて、いやだ。

源治さんは、姉の夫であり、したがってわたしには義兄である。
実直そのものの一応、米作専業農家、である(ちょっと減反・転作「させられて」いるけれど)。
添え状に、今年はもう一つ味が思い通りでないかも、と書いてある。
猛暑と、刈り取り直前の台風のせいである。
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いつもは農協の30kgの米袋に入れるものを、全部750g(5合分)の小分けにしてきた(@_@;)
(お前が食うために送ったのではない、というメッセージ、なんだろな〜〜〜〜)
大型農家、とはいえ、転作もせざるを得ない源治さんの、「米で食えるように」という意欲もあせりも伝わってくる、ような気がする。
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米価は低迷し、転作は強いられ、源治さんは今、米6町歩と大豆4haを作る。
周辺農家の分も含め大量の稲の苗、も作っている。米メーカーであるだけでなく、「稲メーカー」でもある。
あるいは、苗作りから自分で手がける、数少ないホンモノの米作一貫農家、である。

米作農家が自立し市場圧力に抗していくための圃場面積を15〜25ha必要などと決めておいて、いけしゃあしゃあと、義兄に、4haもの減反を強いるような恥知らずなものたちを、断じて、赦すことはできない、と、わたしは思う。
しかも「国家」を僭称してあたかも「主権者」のごとく振る舞うという点で、このものたちは二重に罪深い犯罪者だと言うことを知るべきである。
義兄は、米作りに営々と努力を積み重ね、真に自立した専業農家、を目指して水田の拡大に努めてきた。その努力はもちろん個人の責任に属するものであるが、その営みは人間というものが生きていくについて「類」として振舞う本質を実現して行くものでもある。

(このクニに「農政」らしきものがあったのは、柳田国男の頃だけだったのではないか、とわたしは疑っている)

これまで農協に100%売り渡してきた源治さんだが、何とかして米で生きていたいと、ついに、はじめて、直販というものをやって見たいと言い出した。

及ばずながら愚弟のわたしも手伝うことにした(せざるを得ない(^^ゞ)
何度も、値段や、量やのやり取りをを繰り返すが、「売る」ということに、根本的な異和を感じているであろう義兄とのやり取りは要領を得ない。メールはなく、電話は姉が取り次ぐ間接会話である。
振込口座は、と聞くと農協?郵便局?とかえってくる。

業を煮やしたわたしは、かってにパンフレットらしきものを作ってしまった。
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価格は、源治さんのボソッとつぶやいた「オラわからんれね〜」の一言と、横浜川崎あたりの、かのOKストアで売られている、新潟産のコシヒカリの価格をテキトーに参考にした。
首都圏最安、と信じてのことである。

米購入のご希望ある方はご連絡くださいm(__)m

     ※      ※      ※

繰り返すが源治さんは義兄である。
(源治っていい名だね、と義母がいった。
同感である(^_^)v)

源治さんは性格温厚であって、怒ったところを見たことがない。
謹厳実直にして、緩むことを知らない。
今はなき、酒飲みの我が父に付き合うために、下戸の源治さんは猛訓練して?今や酒豪と成り果てた、と推測される(^^ゞ

米作りもまた謹厳実直であって、どこまでも米の諸事情にに付き合う。
この人が、手塩にかけた米は、その人のように、味わい深い、はずである。

     ※     ※     ※

その日、新米を炊いた。
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でんぷんの芳香が立ち、わたしは一つの空気を思い出す。

〜米は甘いよ、お菓子より甘いよ〜5回も噛めばあまくなるよ〜10回噛めばお菓子より甘いよ〜。
幼いころ母にそのように教えられた。
それは、実感そのものであり、わたしは今も母のことばを信じている。

一粒一粒が立ち上がり、輝き、あまい甘い新米だった。
ちゃんと、蒲原平野の味がするよ。
こころにはちょっと、苦いけれどね。

源治さん、今年もありがとうございます。
ホンモノのコシヒカリ、いただきましたm(__)m
posted by foody at 21:58| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 農・食・状況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月26日

「氷河期世代」と「空想のゲリラ」〜都市の亀裂のような農と食の風景から「自然性」と「地域」へ至る

都市の表層を切り裂いて露出する、あるいは都市の底に析出するような農の風景。
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(塩野さんとわかれ、一人になったわたしは、「土」に見とれて妄想した)

1991年、バブル経済崩壊のころ以降、すなわち近代市場社会の拡大成長期が最終の成熟期をむかえ終焉して以降、隅々まで浸透した市場原理によって分断され孤立してようやく西洋的に「個人化」したであろう個人は、直ちに市場の不況圧力によって見通しと言うものをもたない不安な生存様式を、具体的には「就職氷河期」として強要され、苦難ある生活史を辿る初めての世代となった。

※1970年代に生まれた人を氷河期世代と名づける向きがある。身も蓋もない、とはこのことであろうか。ちなみに1988年以降生まれををゆとり世代、1982年〜87年生まれを、妙にプレッシャーに強いプレッシャー世代などとも呼ぶ向きがある。

※わたしは、時代や社会というようなものにほぼ絶望していたと言って良いだろうが、1991年を過ぎるまでは、実生活に於いて、社会の市場化の進展の恩恵を受けていたし、加担もしていたであろう。生活についてははなはだ楽天的な気分でいたであろう、か。そして、市場化がどこまで進展し、その先がどうなるのかについて、何の展望も持ち合わせていなかったし、求めたとしてもその手がかりはどこにも存在していなかったであろう。わたしは「判断停止」していた…。

また歴史は、市場圧力の浸透によって「社会主義」を終焉させ、「歴史」をも「終焉」(フランシス=フクヤマ)させ、一時はシカゴ学派(フリードマンら)による自由主義経済思想は「市場原理主義」と呼ばれ、世界を席巻したが、「永遠の市場拡大」というスローガンは幻想に過ぎないこともすぐに露呈した。

展望を失った世界では、ポストモダンと呼ばれるきらびやかな思考の数々が、展望を失った世界を「脱構築」して、「亡霊」や「戦争機械」や「共同幻想」や「国民国家」や「貨幣の魔法」の存在を露出させた。が、結局のところそれらを、廃棄しまたはのりこえる道筋は不明瞭そのもので、ますます「展望」の不可能性を、つまり人間社会の希望のなさを強く論証してしまった、ように見えた。

展望のない世界に展望を与える試みを、しかし人類はやめはしない。
自由主義に倫理的な思考軸を持たせようとする「正義」論的なロールズなどの自由主義の修正派であり、マルクス思想への親近感を土台にコミュニタリアニズムとその近傍を歩む社会思想であり、マルクスの再解釈から現在を再解釈し未来を見出そうとする政治主義的な社会思想である。
さらには独自の根拠から人類史の総過程を成長と停滞の反復と捉える歴史観を土台とする広井良典らの日本公共哲学系の思考もある。

人間の(個人の)生存は、共同体によって保障されてきた。これからもそうだろう。
そして、大塚久雄によれば、ゲマインシャフトとは土地に根ざす共同体だった。
(大塚久雄「共同体の基礎理論」 関連記事1はこちら 2はこちら 3はこちら
わたしたちの、新しい(非市場的な)生存原理は、分断された諸個人がここまで、大塚言うところの共同体の原生的な枠組、まで退却しなければ見えてこないのではないか。

個人は分断され孤立しているが、しかし、自然性において共有し連帯し共助している、と言うように…。そしてそのような共同性を「地域」と呼ぶのだ、と言うように…。

     ※     ※     ※

都会のただ中の農村風景は、もちろんのんびりしてもいないし、牧歌的でもありはしない。

それは血を流して助けを呼んでいる、人間の自然性と生存共同体の瀕死の姿であるだろう。
それは都市の幻想を突き崩し、都市を解体して行く力の根源的なダイナモであるだろう。
それは直前に対峙する、もっとも緊急な情況的な課題の一つであるだろう。

     ※     ※     ※

都市のただ中に、あるいは底辺に析出し露出してくる大地、と言うようなものは、近代をその負の極北において身体的に担ったであろう「空想のゲリラ」黒田喜夫を連想させる。

『不安と遊撃』から50年余り、ようやく、時代は黒田喜夫と再会する、で、あろうか…。
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2010年09月07日

9月6日のハマベジ(横浜ベジタブルマーケット) 食を媒介にする使命共同体

ハマベジ(横浜ベジタブルマーケット)は、食にかかわる人々(レストラン関係者、料理研究家、農業者など)が行う、地域の食循環の活動だ。だがコスモファームの中村敏樹さんのような全国的に知られた農と野菜流通の仕掛け人も自分の畑の産物を持って参加している。

ハマベジのような立場は困難だが、問題のありかを明快に照射している、と思える。
なぜなら、「共同体」から分断され、「食」に生業を求めざるを得ない人たちがカント〜バウマンいうところの美的共同体でない、共同性を求めて寄り添っているように思えるからだ。

言い換えれば経済的利益や、自分の(主観的な)価値の「回復」の欲求(支配の欲求)でなく、分断され排除されたところの現実をそのまま受容し、それらと無縁にただひたすら食を要に寄り添うことを求めている、非資本主義的、非美的共同体だ、というようにも思える。
もう一回言い換えればまさしく「使命」を機軸とする連合のしかた、のようにわたしには思える。
それはそのまま純化して形象化していけば、今までにないスタイルの「人倫」(ヘーゲル『精神現象学』でいうところの)にいたるというようなものであるようにも思われる。

     ※     ※      ※

会場は横浜市都筑区仲町台のせせらぎ公園内の古民家。
周囲に目立つような看板はなくやっとのことで入口近くで立てカンが現われる。
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なんと烏骨鶏が放し飼いにされている。しかも一組の番(つがい)から2世が誕生した。
たくさんの雛たちが賑やかに草などを食べて遊びまわっている(@_@)
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新羽の農業者で出荷組合「新羽組合秋源」の秋元さんと出店者の風景。
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左から、運営を担うフレンチレストランHANZOYAの山川さん、会場を提供し烏骨鶏の放し飼いに踏み切った古民家園の「理事」さん、限りなく「農業者」であろうとする小清水農園の小清水さん。
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現役の東京農大学生だが、実家の埼玉の田んぼで米作りをする「サイドファームの」横田さん。米粉のお好み焼きを焼いてくれた。
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米はコシヒカリ。横田さんはより商品価値のあるよりおいしい、かつより栄養もある食べかた・売り方を目指し、「胚芽米」に取り組んでいる。
胚芽米は、白米の美味しさを実現しながら胚芽を残すことによって、玄米の栄養価に近づけようとするものだ。

米は美しい紡錘形をしているが、白米をよく見ると、一部分だけえぐられたようにへこんでいる。胚芽のあった場所だ。胚芽は発芽するときに葉になり根になりする部分で、すでにごく小さいながらそのカタチを形成している。
またタンパク質、脂肪、ビタミン、ミネラルに富んでおり、貯蔵中も絶えず呼吸をしている生きた組織である。
  ※詳しくはこちらをご覧ください。女子栄養大学の五明(ごみょう)先生のページです。

胚芽は普通に精米すると果皮などのヌカ層といっしょに胚芽もほとんど取れてしまう。
これを胚芽を残し他の部分のヌカ層だけを取り去ったものが胚芽米だ。
「ハニーライス」??と名づけた横田さんの胚芽米。一袋400円。もちろんゲット。
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今日の収穫はバターナッツ。
今年の流行り野菜である。
ピーナッツのような、ひょうたんのようなカタチをしているがれっきとした南瓜であって、日本種とも言われるが、イタリアでも食され、現在はアメリカから来たものが主流という。つまりはっきりとは分からない。
収穫後は長期保存に堪える。堅そうに見えるが、そうでもなくウリをきる感覚で切れてしまう。
味は濃厚でクリーミー。
普通に南瓜として調理可能だが、ポタージュにするのがおいしさが良くわかる。

<9月25〜6日のモザイクモールでの配布用に、考えていたものだったので直ちにサンプル用に購入>
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参考まで断面写真。
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※以下の写真は7月5日のハマベジでのものです。
御大の中村さん。東京に事務所を持ち農業や農-食連携のコンサルタントをしながらたくさんの農業と食の革新をしかけ、同時に愛媛県の自宅の農園で耕作もする。愛媛で自分で作ったバナナピーマンなどをもってきた。
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会場にはテント張りの料理教室が出現。
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料理教室を担うのは中田土起子さんとこばやしゆみこさん。二人とも近郊で料理教室を営む。
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2010年07月25日

7月25日第3回友愛公共フォーラム 理念と政治と行政と「社会的実践」と広井良典

理念と政治〜国民国家の終焉から共生理念の実践使命共同体へ

7月25日に青山こどもの城で開催された「第3回友愛公共フォーラム」へ行ってきた。
主催は「友愛公共フォーラム」。ホームページを見ると「友愛」と「新しい公共」を掲げて鳩山〜管民主党政府を支援しようという姿勢が明瞭に打ち出されている。
発起人には「公共哲学」の山脇直司、「定常型社会」「コミュニティを問い直す」の広井良典など多数の学者、鈴木寛などの学者出身の民主党国会議員、NPO法人関係者が名を連ねる。

設立趣意によると
 「政権交代によって最先端の思想的・学問的な理念を踏まえた政権が成立し
 たために、その理念や政策を論評することが困難になってしまっている」
 「友愛や公共といった理念に即して、政策に関して、内在的な議論・提
 案・批判ないし批評を行う「公共の場」を形成し、それを公開すること
によって、友愛政治の健全な進展に寄与したい。

と書いてある。
今年NHK教育テレビで放映されたマイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」で名をはせた小林政弥氏のいる、「千葉大学公共哲学センター」が形成する「公共哲学ネットワーク」が「支援」している、らしい。

去年の政権交代がもつ意味は、政治を権力をめぐる権謀術数であるとし、また権力は利益とリンクするという資本主義市場社会の発展を目指す国民国家体制が、社会経済的にも明白に終焉したことであろう。
そして現在の課題は、たぶん資本主義的利益でない、共生とか公共とか友愛とか言うような、「共生社会」のための「貨幣的利益でない理念的価値」を指標とする社会へ生まれ変わる具体的なビジョンを描き出し、その実践の途につくことであろう。

政治は、本質的には、資本と市場社会の利益共同体から、非市場的な理念の実現を目指す使命共同体へと変わった。ハズである。

行政と「社会的実践」

わたしは、個人的にも組織的にも特に民主党に縁があるわけでも支持しているわけでもないが、去年、広井良典の思考に出会い、大いに啓発されたので、その後の広井良典に注目しているのである。

人類史を大きく捉え、近代を市場社会化による例外的な経済成長期とみなし、現代を成長期が終わったあとの数百年はつづくであろう経済成長が期待できない・しなくてもよい普通の状態=「定常型」社会期と捉える広井のパースペクティブにわたしは賛同する。
そして成長を期待しなくても、持続可能な「社会の組み替え」問題は医療や福祉や税制や都市政策やと言った「政策」だけでなく、最終的には「共生」を保障する(過去の封建共同体ではなく、個人の自立を前提とした)新しい
「コミュニティ」が形成できるか否かにかかっている、という展望にも基本的には賛同する。

だからこそ、わたしはいま、地域における食と農の循環を通じて実践的なコミュニティ作りを志向しようとしている。
広井と違うのは(そしてついでに書いておくと柄谷行人とも違うのは)実践において「地域」という現場に根ざすことがもっとも大切だと考えていることだ。
地域的な共生基盤を構築し、行政はそれをささえ、それに奉仕するものとなるというようなことだ。
地方自治、とは本来そのような「理念」だったはずである。

しかし、国家が行政を主導し、官僚組織が地方を統括する文化(国民国家=行政システム)の中では、官僚が直ちに自らを主権者と幻想して、「国家」を僭称してしまうように学者も直ちに国家や行政が実践の場であるかのような錯覚に陥ってしまうのではないか、とおそれられる。
「行政」を図式とルールで動くゲームのように思いなし、(国家的)権力がそれをなしうると錯覚してしまう恐れが、なお強く深く蔓延している、と思われる。

そのとき「生きる場」=現場=をもたない言葉は、自己表出をもたない空虚な行政語となって枯れてゆく。

資本主義後の社会システムを明言する広井が、どのように実践的なビジョンを提示するか、どのように「地域」に到達するのか、とても興味がある。

「創造的福祉社会or創造的定常型経済システム」の可能性

今回の、わずか30分の講演に44シートものレジュメを用意したのには驚かされたが、「コミュニティの重要性」の項は政策へと転化してゆくための具体性・事実性に追われて、であろうか、行政的レベルの分析に終始して掘り下げの方向が違うように思われ、本質的な深みには到達していないように思われた。

「これからの福祉・社会と価値原理」では、人類精神史的な「拡大・成長期」と「定常化」の3度のサイクルに立ち戻って、「倫理」の再内部化を提言している。精神史的又は倫理的な課題は社会システムが招来するものであって、社会システムを構築するものではないのではないか、と思われた。

「福祉国家・資本主義の進化とコミュニティ」では生産〜生活軸と人間・労働〜場所・空間軸をたてているが、あくまで行政課題として提起されているように見える。ここから、もっと本質へと「抽象」し、現実へと飛躍する可能性が開けるような気もする。

「創造的福祉社会(創造的定常型経済システム)の可能性」では「創造性」をキーワードに、環境と経済・福祉の統合に言及しているが、どうも核心の外側を回り続けるスローガンの連続のようであり、「行政審議会」の答申のようであり…というような気がしてならない。

壮大な人類史的パースペクティブから描かれる、社会の構想には、見合うだけの深いまたは壮大な哲学があるべきではないか。
公共哲学は、まだとば口にたっているに過ぎない。
その分、大いに可能性もあると期待したい。

     ※     ※     ※

会場は100名ほどの聴衆であったが、それでも「盛況」であるらしい。
話者は、短い持ち時間の中で苦労していたが、民主党国会議員の鈴木寛氏の明晰・高速な話柄、佐久病院の色平哲郎医師の「地域」をしんから知る洒脱な話しっぷりと腰の低い構え方にそれぞれ感銘を受けた。
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学者語や行政語の会話ではなく、もっと深くじっくり話を聞いたり会話したりすることができると良いのにな。それがマイケル・サンデル式対話でも、おのずから人格と言うものが味をつけてくれるだろう、などと妄想しながら帰途に着いた。

     ※     ※     ※

友愛公共フォーラム
http://yuai-koukyou.sakura.ne.jp/index.html
posted by foody at 20:02| 神奈川 ☀| Comment(0) | 農・食・状況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7月20日のアシタバミーティング〜若者たちの農と地域への静かな熱気に触れる

すっかり時間がたってしまったが、猛暑の7月20日、汐留イタリア街のアーキテクトカフェで開かれた農と地域を考えるアシタバブログメンバーとその呼びかけに応じた参加者による「アシタバミーティング」へいってきた。

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会場はほぼ満員の盛況。
なんと言っても、ほぼ全員が20代なのにまずびっくり(@_@;)
会場の空気が若やいでいる。
わたしの体験したことのない、不思議な熱い空気感がある。
静かな熱さとでも言うべきか。

司会を務めた、西居豊さんは地域作り・地域活性化を行う合同会社五穀豊穣代表の27歳。
3000人の会員に市民農園を提供する株式会社マイファーム代表の西辻一真さんも27歳。
主要メンバーはシンクタンクや広告代理店、農水省などに勤める人が目立つがみんな20代。
こんな人たちが、農や地域活性化に集い一種の「美的コミュニティ」を形成している。こんな光景は少し前には想像もできなかっただろう。
しかも、多くが「ボランティア」精神や社会的な構想というよりは、
(若いだけになお)「起業」や「自立」のマインドに満ちている。
農や地域活性化が新しいビジネスチャンスになって来たのだ、と思える。

農も地域活性化も、いまはまだ手探りで「同志」を募り、コミュニティ形成を目指す段階かもしれない。
しかしいまからの20年か30年こそが、確かに、農も地域もいやでも存亡をかけた「命がけの飛躍」の正念場であると思われる。
このクニには、持続する農のビジョンも、地域のビジョンもまだない。

ここに集った若い芽が、いまなお無展望の農と地域に新たな生気を吹き込んでいって欲しい、と心から願う。

     ※     ※     ※

  <あの青い空も遺跡よ>

  わたしはでかかる冷たい汗をおさえ狂いなおす
  
  〜略〜

  汗は流される。栄えぬための涙が流される。

  〜略〜

  風は風を超え
  人は類(たぐい)をのみほし
  
  (荒川洋治 1971年の第1詩集『娼婦論』の巻頭に置かれた「タシュケン   ト昂情」)

     ※    ※     ※

アシタバブログはこちら
http://astb.jugem.jp/

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