2013年04月06日

ブログ遅れ〜再開の言い訳、読書メモ〜柄谷行人と竹田青嗣・単行者たち

なんやらかんやらであわただしく、インターネット環境も調子悪くて(e-mobileのLTE‐Wifiね)ブログの更新も畑作業も思うようにいかない。
ブログはまだ3月11日だし、畑は3月26日から行けていない(ーー;)
今週末、今日の夜からは春の嵐(おう、ヘルマンヘッセ、春の嵐、か)の予報だ(>_<)
また作業が遅れるぅ〜(T_T)

というのが、ちょっとの中断の言い訳なんである。
この間に、月末の報告をまとめ、市民団体uzumakiの最後の決算をまとめ、4月の仕事の準備をし、取り掛かった。畑の仕事は週末の雨もあってお留守になったわけだが、いくつかの本を読むことができた。

     ※     ※     ※

竹田青嗣の『言語的思考へ 脱構築と現象学』を読んで改めて柄谷行人との違いについて思ったりしていた。(本は移動の電車で読むのだ。柄谷『トランスクリティーク』→竹田『人間的自由の条件』+『人間の未来』→『言語的思考へ』、そして柄谷『世界史の構造』の順で読んだ。みな覚醒の思いで、2度ずつ読んでいる。)
どちらも1970年ごろに吉本隆明の強い影響圏から出発した文芸批評家だった(この世代で吉本の影響を受けないものなどはいないはず、といってよいほどだろうが)。「在日」だが政治色の薄い竹田青嗣は文芸批評から近代哲学へと進みフッサール現象学から言語‐認識論の隘路を経てヘーゲルの『自由』へと行き着き、60年ブントの柄谷はマルクスの「可能性」からやはり近代現代哲学へと進み、カントとマルクスの「トランスクリティーク」を経て、アナーキズムを視野に入れつつ「実践」的な『アソシエーション』と『世界共和国』に行きついている、ように見える。
竹田青嗣が、市場システムと近代の再検討にじっくり力を注いでいる(へーゲルの「自由」の良さに拘泥している?)のに対して、柄谷行人は国家と資本の揚棄を無条件の前提としてやや急ぎ足で未来のフレームを構築しようとしている、ように見える。

彼らは互いを、強く意識し評価してこれらの書物の中でも互いに言及しているが、それぞれの弱いところをついたやや厳しい批判に終始している印象はぬぐえない。まだその営為が交錯し、出会うところまで時代の舞台が回っていない、かもしれない…。この時代というものが強いる言語の水準というものの、吃水が低すぎる、のかもしれない。
この40年で、もちろん、想像もできないほど、飛躍的に熟してきてはいるのだが…。

ともあれ彼らは、この時代を共有し自力で自分の思想を構築しようとしている。彼らは世界〜海外の現代思想に精通するが、このシマグニ伝統の外国の言説の切り売り屋ではないし、このクニの風土を否定もしない。(竹田は自分の民族的帰属から、離脱しもしている。柄谷は英語圏で活動しながらこの場所、で思考する)
その意味では、吉本の「自立」のある核心部分を継承しながら、世界を横断する言語=思想の水準がこのニホンの文化圏で史上初めて到来しようとしている、と思う。

彼ら二人は、交わることが困難な、しかしとても近いところを歩む単行者である、とも。

柄谷行人 『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波現代文庫2010年1月15日第1刷、1500円+税
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竹田青嗣『人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想』講談社 2004年12月7日第1刷2700+税
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竹田青嗣 『人間の未来 ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書2009年2月10日第1刷900円+税
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柄谷 『世界史の構造』岩波書店2010年6月24日第1刷3500円+税
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竹田 『言語的思考へ 脱構築と現象学』径書房2001年12月15日第1刷2200円+税
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柄谷 『マルクス その可能性の中心』
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竹田 『エロスの現象学』
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2010年09月30日

赤染晶子「乙女の密告」〜日常に露出する共同幻想を戯画化し「構造」化する新しいコトバの力 『文芸春秋』9月号

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乙女の密告.jpg

「曖昧さ」が生み出す排除と差別と,
アイデンテティの構造を日常の中に描き出す


赤染晶子さんの作品である。
語りにくいし失礼にもあたるが、まず、すごい名前だと思った。名前を見ているだけで照れくさい。(わたしもそう言われることがあるのでそう思うかのもしれないのだが…(^^ゞ)直接に高名な歴史的人物とか自然とかを連想させ、、またはその命名の意匠を連想させられたりするような、気がして、また、秘しておくべき内実が暴露されたような、しかし否定できないような気がするのである。
作品のタイトルが「乙女の密告」と来るので、ますます照れくさくて、しかも作者の言葉欄に「血を吐いて」などとあると、あまりの直截さにたじろぎ、読まずにおこうか、と何度も思って10日以上放っておいた。

あまり根拠なく、源氏物語のような、大恋愛小説のように恐れていたのである。

しかしこの「照れくささ」はこの人の作品、とりあえずこの作品「乙女の密告」が描く世界に、ある意味では本質的にかかわっているようにも思われる。
なんら実体を意味しない「記号」である名前から、照れや恐れにいたる人間の感情の不思議さは、無意味から始まる区別と差別と排除にも通じるからである。

改めてみてみよう。
この作品は日常の裂け目に露出する「共同幻想」の構造を、まっすぐにきわめて論理的に剔抉しようとする現在の社会的思想的課題に取り組む思想小説である。これを短編にともかくも仕上げることは作者の力量をうかがわせる。
また敢えて「日常」をかるく、戯画化して扱うことの成否は、ことにこの作品のような短編小説では小説のできに直結するが、その点ではいくらか譲っておかねばなるまい。

作品の物語は、アンネ・フランクらユダヤ人への偏見と差別の構造をなぞりながら、京都の大学で語学を学ぶ女子学生たちの中の差別と排除の発生を同じようになぞる趣向だ。それは「無意味」な共同体がもたらす「排除」から、一人ひとりのアイデンティを覚醒させる「構造」にいたり、ついには一人ひとりのアイデンテティを問うにいたる物語でもある。

たとえば、風変わりな偏執狂的な教師バッハマンは学生たちを「乙女」と呼ぶ。教材に「乙女」に人気のある『ヘト・アハテルハイス』(アンネの日記のオランダ語の原題)を使っているからであって女子学生たちが「乙女」と呼ぶにふさわしい、からではない。すでにそのことによって、曖昧な「乙女」の意味作用をめぐる漣は立つ。「乙女」には確たる定義はなく、はなんなのか曖昧で不明で気恥ずかしくなるようなコトバだからである。
主人公みか子は「乙女の皆さん〜」と呼びかけられて、真っ先に手を挙げるような「乙女」の代表的存在で(あろうとするひとで)ある。それゆえ主人公にふさわしい。なぜなら、真摯に「乙女」であろうと努める精神だからこそ、些細な出来事の連続であっても共同体内部に立つ漣によって翻弄され、次第に自らの内実=乙女とはなにか、ここにこのようにしてある自分=アイデンテティとは何かと言う日常の裂け目のような問いを自らに発せざるを得ない存在だからだ。
「神様の落としていった荷物」を背負ってしまう人、であり共同体の外から共同体を見る「眼」をもつ人である。

池澤夏樹が言うように定義のないコトバには外部の力が「実体」(のようなもの)として入り込む。ここでは「うわさがコトを決めていく」。つまり共同幻想としての「乙女」が成立するコトによって個人の内心の「乙女」は抑圧され外部へ、「法」=共同幻想の外へとおいやられて行く。

その辺の事情は、バッハマンが「無意味に」分類した「すみれ組」と「黒ばら組」においてもっと明白である。いったんあるグループ(共同体)に強制的であれ名辞的にであれ、分けられてしまうと、ただの仮象(像)にすぎなかったものが急速に実体化し、個人を制約し疎外し、ついには「排除」にいたるのある。
  
   みか子は麗子様の隠れファンだ。だれにも秘密だ。恥ずかしい。
  貴代にも隠している。麗子様は黒ばら組のリーダーだ。それだけ
  でも、すみれ組のみか子にとっては背信行為なのだ。―P390

   麗子様にバッハマン教授との黒いうわさが流れた。乙女らしからぬ
  ことをして、スピーチの原稿を作ってもらっているのではないか。
   ―P395

曖昧な「うわさ」のようなものこそ、仮象を実体(のようなもの)に転倒してゆく幻想装置である。

  「麗子様、不潔やわ……」
  最初はすみれ組の百合子様が眉をひそめただけだった。

  うわさは少しずつ広まった。乙女たちはスピーチの練習よりも
  熱心に噂を囁きあったのだ。乙女とはとにかく喋る生き物なのだ。
  「えー、信じられへんわー。不潔やわぁ」
   これが乙女の決まり文句だった。乙女とは信じられないと驚いて
  誰よりもそれを深く信じる生き物だ。―P395

このようにして噂は信仰を生み、ついには実体へと転倒されてゆく。

差別に加担するものは、アイデンテティを安堵され、差別を疑うものはアイデンテティを喪う。自分は、なにものであるか、と自分に問うというシジフォス(シーシュフォス)にも肖た不条理の問いに我が身を焦がすことになる。

人間が生きること、は罪深い。
生きていることと、意識する生き物であることにおいて二重に罪深い、であろう。

そして共同性はあるとき急速にあらゆる疑義を振り払い、自己増殖して世界の主人公(主なるもの)として君臨する。

  とうとう恐るべき事態になってしまった。麗子様が黒ばら組
  から追放されてしまったのだ。組を追放されるなど、乙女に
  とって生存にかかわることだ。乙女とはトイレさえ群れをな
  していく生き物なのだ。―P396  

バッハマンは学生一人ひとりに「いちご大福とウィスキーのどちらが好きか」という「無意味」な質問をして、全員を無意味に「いちご組」と「黒ばら組」に振り分けたのだった。が、無意味であるほどに有意味なことはない。それはどのようにも変容するからだ…(それは、宗教に良く肖ている、貨幣に良く肖ている、または言語によく肖ている、または国家に良く肖ている…)。

些細ないくつかの「無意味」な出来事から主人公みか子とその周囲の学生仲間たちの日常は繰り返し、漣を立てるように動きながら時に大きな疑惑をめぐって立場や利益を共有する「共同体」を生み出し、したがって排除されるあわれなもの=スケープゴート=生贄、を生み出してゆく。

(スケープゴートは抹殺されるものばかりでなく、有用なものも多い。このクニの歴史では、社会に、つまり支配共同体に有用なものである場合には次第に様式として外部化され、これを天皇家が保護することで、重層的な支配構造(支配者層と最底辺からともに支持される)を保持してきた、かもしれない)

そうしたプロセスを正面から取り上げ、現代的に軽薄に、物語として描き出すだけでも十分に今日の純文学作家としての役割をはたしているだろう。十分に「剛直」な試みといえるのではないか。

しかしここでは、麗子様は、「乙女」の群れ=生存共同体から力強くも、自立することを択び物語は危うく、まことに危うく「日常」の枠組を救い出す。

  「みか子、心配せんでええんよ。あたしが好きなのウィスキーでも、
  いちご大福でもない。ストップウォッチやねん。あたしの場所は
  すみれ組でも黒ばら組でもない。マイクの前だけやねん」―P396

このあたりは、構成がやや図式的に過ぎるかと思われ、作り物てきなうそ臭さを感じさせる難点ではあるだろうか。
しかし、読者は、安堵して(何に安堵したのかはまた別の問題として扱われねばならない)次の「漣」の顛末を、漣に翻弄される人々の様やそれらが織り成すあや、を期待することとなる。

そして漣は次第に深く大きくなり、振り子のようにみか子に跳ね返って、作品はさらに中心的な主題的「構造」へと進み、差別又は排除の構造とアイデンテティの構造との、密接不可分な重い問いとして集約されていく…。

     ※     ※     ※  

女子学生間の些細な日常生活上の「排除」の構造と、アンネ・フランクらの差別され排除され虐殺されたユダヤ人に対する「排除」の構造の本質に変わりはない。ただ後者には固有の長い長い歴史的経緯があり、民族全体を対象とする規模の大きさがある。に、過ぎない、とこの文脈では書き添えておこうか。

「太陽の季節」というような無反省な風俗的通俗小説しか書いたことのない、石原慎太郎がこれをまったく理解できないのは、正しい。

戦争は非日常として現れ、人間を数として大量虐殺するが、日常生活は「日常」のうちに無名のものとしてのたくさんの生を殺し、さらには戦争をも生み出すのだ。

コトバの力

赤染晶子は言葉の退却戦を戦う作家だ、とわたしには思える。
意識的に構成されたプロットに、意識的に使われる関西弁の軽薄そうな日常会話の話語と、簡潔で文速度の速い語りの部分の論理的な書き言葉(文語)を使い分ける。

     ※     ※     ※

村上龍と宮本輝が、ユダヤ人問題を扱う、扱い方に異和を唱えるのは奇妙な印象だ。
ユダヤ人問題は聖なる高貴な課題で、女子学生の些細な日常と同列でない、と考えるのはどこにその根拠があるだろうか。村上は「好み」といい、モラリストぶりを発揮している。
宮本はみか子が自らのアイデンティをアンネ・フランクのアイデンティに重ね合わせて「アンネ・フランクはユダヤ人です」と、いわば内的に重層的に構造的に「密告」するラストシーンを、結果として「アンネ・フランクを密告したのはアンネ自身だと結論付けているように読める作りに「正しい、正しくないの次元とは別の強い抵抗を感じて」と書いている。
宮本は、あえて誤読している印象だが、しかし、そのようにも読める、と言うのはこの作品の弱点ではあるかもしれない。

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2010年07月24日

用語の平易さから日本語の美しさまで〜長谷川宏新訳カール・マルクス『経済学・哲学草稿』2

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国民文庫版と比べる
これまで、わたしが一番よく読んだ『経済学・哲学哲学草稿』で、現在も所持しているものは、大月書店国民文庫版のものである。
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藤野渉(ふじのわたり)訳。
初版は1963年3月15日、わたしがもっているものは、1974年3月5日の第19刷だ。よく売れていたのだな。

とにかく晦渋で読むのに骨が折れた。
傍線やメモで真っ赤になっているページも多い。
だがいま見ると、それらは長谷川宏版があれば不要であったと言えそうな、重層する用語についてのモノであったり、複雑な言い回しについてのものが多い。

一つの段落の中で用語が微妙に重層・異動したり、言い回しが複雑であったり皮肉が効いていたりであったりするわかりにくさはもともとのマルクスの文章がそうなのであろう。
また当時のニホンの学的水準、政治的状況の中では、原文に忠実な翻訳こそが求められたであろうから、日本語として達意の文章は求めるべくもなかった、と言うことであろうか。

藤野渉は京大出身で名大で教鞭をとった。同氏が翻訳した中公クラシックスのヘーゲル『法の哲学』も所持しているが、こちらははるかに整理された読み良い文章である。

用語の平易さは、明晰と正確に繋がる

わたしは2009年、共同幻想論3 マルクスの普遍的と受苦的で引用している。

  人間は直接に自然存在である。自然存在として、しかも生きた自
  然存在として、彼は一方では自然的諸力、生の諸力を備えており、
  一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼の中に諸々の素質や
  堪能性として、衝動として現存している。
  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在である。
   (藤野渉訳『経済学哲学草稿』P222 第三手稿「ヘーゲル弁証法および
    哲学一般の批判」)

第一文の「直接に」の意味が良く分からない。
第二文の「自然的諸力、生の諸力」の「諸」が分からない。
同じく第二文の「堪能性」が分からない。
同じく第二文の「現存」が分からない。
とこんな調子である。
本当は「分からない」のではなく、すんなりと飲み込めないだけ、ということなのだが、長谷川宏版から同じ箇所を引き、比べて見るとその辺の事情がはっきりする。

  人間はそのまま自然の存在である。自然存在――生きた自然存在――と
  して、人間は、自然の力ないし生命力を備えた、活動する存在であって、
  この自然力ないし生命力は、人間のうちに素質や能力として、また、衝
  動として実在する。
  その一方、自然な、肉体をもった、感覚的な、対象的な存在である人間は、
  動物や植物と同様、外からの力を受ける、制約された、限定された存在
  である。
    (長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』P185〜186)

すとんと、食べ物が胃の腑におちるように、わかるとは、こんなことであろうか。

  人間は直接に自然存在である。(藤野版)
  人間はそのまま自然の存在である。(長谷川版)

「直接に」は日常語の用法と異なっている言葉を使ったためマルクスの意図も読み取りにくく、哲学的な意味のありそうな漢語の術語かと思われ、何が言いたいのか判断しにくく曖昧なものが残る。
しかし長谷川訳の「そのまま」を読めば、「直接的に」は「無媒介に=あるがままの姿で」ということで、たいした述語的意味はなかったのである。

同様に「自然的諸力、生の諸力」の「諸」もたいした意味のない、日本語としては不適切な訳語と言わねばなるまい。原文原語に忠実であろうとして、または当時の歴史的学的な環境から、意味ありげな格調の高そうな、しかし定義のない曖昧な、用語法をとってしまったということであろうか。

普通に文章を書いていても、意味ありげな漢語を選択したがために、かえって言いたいことがあやふやになり、誤読の余地を作ってしまう、ということは、良くあることだ。
用語の平易さは、明晰かつ正確に通じる、ということか。

つづく、第二文の後半を並べてみる。

  一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼の中に諸々の素質や
  堪能性として、衝動として現存している。(藤野版)
  活動する存在であって、この自然力ないし生命力は、人間のうちに素質
  や能力として、また、衝動として実在する。(長谷川版)

ここでも、活動「的」という漢語的な用法と、活動「する」という和語的な用法では、平易に見える和語的な後者のほうが曖昧さがなくすっきりと読める。
「堪能性」も日常的な用法でなく、訳者の労はわかるがとっつきにくい。
「堪能する」とは、はなはだしくよく感じ行う事であって、その結果ものごとに十分に満足する、という程のことになる。また「堪能だ」とははなはだしくよくものごとを行うことができる状態であって、技術や学問に習熟して能力の高いことをあらわす。つい、どういうことかと、考えることになり、たぶん後者の意味だな、と推定する作業を強いられる。
これを、単に「能力」と訳し、さらに「諸々」を省略し、「現存」を「実存」とした長谷川の踏ん切りに敬意を表するべきか。

結果として、長谷川訳は平易で読みやすく、誤解の余地が少ない、と言えるだろう。
逆に藤野訳は全体として晦渋かつ曖昧さを多く残して、翻訳としてはとても不適切な部分が多いが、「堪能性」などという用語にはある種の詩的なロマンが感じられる、といっておこう。

「平易の美」と晦渋な「詩的ロマン」

次に第三文を並べてみる。

  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在である。(藤野版)

  その一方、自然な、肉体をもった、感覚的な、対象的な存在である人間は、
  動物や植物と同様、外からの力を受ける、制約された、限定された存在
  である。(長谷川版)

藤野訳はやはり、漢語、特に哲学用語が多く一語一語に引っかかりやすい。「自然的」も「身体的」も「感性的」も、わたしは一つ一つすべて引っかかり難行した。
長谷川訳は不要な哲学的術語を避けて誤解の余地すくなく、日本語として文句なくすっきり美しい。

ここで「用語」として、重要なのは「対象的」というマルクス用語だけである。長谷川はこれをマルクスの重要な術語と認定して使って入るように見える。(後に続く部分でマルクスは「対象的」と言うことを、きわめて深い人間的本質としてあざやかに描き出し、定義している)

     ※     ※     ※

生硬であって、けして完成度が高いとは言えない藤野訳だが、一点、わたしが救い出したいところがあるとすれば、藤野訳の「受苦的」という言葉に、やはりある種の詩的ロマンを感ぜずにはいられない。
あるいは、このことばに惹かれて、わたしは、青年期のわたしのマルクス像を、晦渋な哲学用語から、詩的な感性的な、感情をもつ生きたマルクスへと
立ち上がらせた、かもしれない。

しかし、こんな読み方は邪道であって、かつて荒川洋治が第二詩集「水駅」でうたっていたように、「国境、この美しいことばに見とれて、いつも双つの国は生まれた」のである。
今日ではすでに無用となった権力や支配や疎外や共同幻想やを、人々が求めたからこそ、近代という時代ははそのような無用なものたちを生んだ、であろう。

心して、詩的ロマンではなく長谷川訳の「平易の美」をこそ「堪能」するべきである。

     ※     ※     ※

カール・マルクス著長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』
光文社古典新訳文庫
2010年6月20日第1刷648円+税
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2010年07月22日

長谷川宏の画期的・革命的な新訳に涙がでそうになる〜長谷川宏新訳カール・マルクス『経済学・哲学草稿』1

経哲草稿 長谷川宏.jpg
長谷川宏による、カール・マルクス『経済学・哲学草稿』の新訳が出た。
それも文庫である。光文社古典新訳文庫である。

買って、ぱらぱらみて見た。
パラパラ拾い読みしながら、雨上がりに青空がスーッと広がるような、
胸のすくような思いにとらわれた。

『経済学・哲学草稿』はマルクスの著作の中でも、もっとも思考が躍動する作品で、その自然哲学と法哲学の人間的再構築は人間の存在の根源的形態を言い表そうとしており、わたしにとってはすべての思考の根源であるような書である。
何度も読んできた。何度も読んで来たが、晦渋な訳文(それは必ずしもこれまでの訳者のせいではないが)と曖昧で難解な訳語と、格闘するようにしながら、自分の用語を組み立てて、建築物を解体するようにして読み取った内容を自分でまた組み立てなおしてみて、「ああ、そうだったんだな」、と初めて得心するような読み方だった。

長谷川宏の新訳には、国民経済学とヘーゲル哲学を武器に、それらを批判的に乗り越えながら、まさしく市場化する「近代」の勃興のまっただ中に踏み出す青年マルクスの思考が躍動している。
読みながら、そうだよ、そうだよ、俺と一緒だよ、と共感する。
自然や社会(ヘーゲルの「法」)への考えにも共感するが、思考の仕方、その躍動の仕方に感動する。

単に訳語がわかりやすいというようなことではなく、(それだけでも言い尽くせぬほど意義深い、また労多い仕事なのであるが)そこに、生きた若き人間マルクスが、隣にいるようにして思考している姿がありありと浮かぶ。
―すると、折々にマルクスを読んできたころのことや、思いや、失ってきた人やものや時がいっぺんにやってきて、なきそうになってしまった。

生きたマルクスを描き出す長谷川宏の訳文のちから、に感動した。

     ※     ※     ※

カール・マルクス著長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』
光文社古典新訳文庫
2010年6月20日第1刷648円+税
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