2012年10月30日

2012年10月22日のUzumakiファーム その2収穫、たまねぎの土作り、坊ちゃんかぼちゃの受粉果、畑におけるエロス性と関係性、今日も呆然と見送る

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一息ついて高瀬さんと一緒に、手間のかかる収穫にかかる。
モロヘイヤとツルムラサキの後は、まだまだできるミニトマトと、盛りを迎えた秋の第1期の小松菜。
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なすとピーマンもまだまだ元気だ♪
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ミニ青梗菜も十分に採れそう。
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高瀬さんはすかさずパクリと、摘み食いだ^_^;
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続いて、先週ほぼ完全に疎抜きを終わったのだが、最後に残しておいた疎抜き用の大根を、引き抜いた(^^♪
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ここで高倍さんも到着して、蕪類や小松菜などもどんどん採る。
持てるかな〜どうかな〜、と幾分声も弾む。
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ちゃんと写真を撮るまもなく、収穫物を分ける。
かろうじて大体の量を写真に収めた。
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収穫の後は、たまねぎを植える予定の10番の畝の北半分と7番の畝の南半分に、それぞれ堆肥80ℓと有機肥料を入れて土作り第2耕の耕運だ。なんと高瀬さんも耕運機に初挑戦。
軽量耕運機は意外に力が要るのに驚きの表情だ。
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手早くやったつもりでも、作業の終わりは10時を回っていた。
片付けがてら畑を回ると、坊ちゃんかぼちゃが季節はずれの元気で3つも新しい受粉果をつけている(@_@;)
なんということだろう。
効率を重んじる「農業」では、とっくに(8月末ね、だいたい^^;)片付けているはずのかぼちゃがこの季節にも元気に生きているのだ。わたしたちは「農」を「業」としないことを旨とする、自給者だ。
(まあちゃんと始末していないことの言い訳半分なのではあるが^^;)
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生命というものの、小さいか弱いものである生命の意外な強さ。
すぐにも枯れ落ちる運命なのだが、そんな客観的=他者的視点は、自らを生ききろうとする生命の即自性とは結局出会わない、のでは、ないか。
生きたものが、我欲を張ったものが結局自分を全うする「勝者」なのではないか…。
(浜崎あゆみは、敗者でいい、敗者でいたいんだ〜と歌っていた、かな。
もちろん勝敗は市場システムの本質的な原理であって揚棄されるべきものだ。すなわち市場システムの原基たる勝利=幸福を目指さないことに現代的時代的意義がある、のだ)

谷川雁が書いていたように、ぎなのこるがふのよかと(生き残ったやつが運のいいやつ)という、横殴りの吹雪のような成り行きになるのではないか、結局意識にとって生の総括とは主観でしかないのではないか、と、生命=エロス的本質が恐れられた。

しかし、そんなことは無論気の迷いでしかない、とわたしは言葉にしてみる。

意識は意識あるものとして自分をも対象化する。
関係性の中に宙吊りにされた自分を、関係性として認識する。
したがってマルクスが言うように、人間は「関係性の総体」としてあらわれ、そのようなものとしてわたしたちは認識する、はずだ。

恐ろしいと思うのは、依然として自ら生き切ることを目指しながら、一方で客観的な真や善や美の公準というようなものを恐れるからだ。恐れの受感が、生きてあることの関係性をたとえば普遍性(他者性=倫理性)として取り出したとして、それもまた、一人の観念=意識の中ににしかないもので、生ける生命の我欲=エロス性とその意味で結局等価でしかないのだ、とわたしが思うことだ。

影を恐れるようにして独我論の堂々巡りが、生きとし生けるものを今日も呆然と、見送っている。

    ※     ※     ※

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posted by foody at 05:52| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Uzumakiファーム2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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