2011年12月10日

12月6日のUzumakiファーム 料理教室の野菜を採りにいく〜食と食材と生存の掛け替えのなさ、というもの

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この日はかわさき育ち料理教室の野菜を採りに8時ころ到着。
畑の野菜だけで間に合うかどうか心配だったので、宮前区馬絹の梅原さんにも頼んである(^^ゞ

前日まで15度を越えていた気温は一気に下がり、本日は10℃どまり。気温は乱高下しながら、季節は一気に真冬に進む。
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半結球の山東白菜。真っ白な葉の軸が美しい。
白菜同様に使うが、白菜よりもさらにみずみずしく、葉は柔らかく味わいもあって生で食べても美味しい。
軸の部分を生で食べると、水分があふれ出し、水を飲むようにごくごくと喉を通る。
乾燥した冬の関東の畑で、水代わりに、わたしはこの軸を呑むように食べる(^^ゞ
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これは形よく出来たので、そのまま持っていこう。

大根を抜いてみた。
サイズは小ぶりで、少し曲がっている。
今年は、9月7日と9日に播いたが、播種の翌日に大雨であったり、発芽の日に猛暑であったりして、運悪く苗の時点で2度も播き直したので、やむを得ない。
ちょっと一日、ずれていれば違ったのだが…。
種播きの日を金曜土曜日の活動日に限っているので、天気を見て、この日、という風に播くことをしなかった。

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食べると美味しいのだけれども、小さくて見栄えがしないな〜。
梅原さんに頼んでおいて正解かな〜(^^ゞ

白菜である。
まあまあである。市販サイズくらいである。虫食いがある。中に虫がいるようだ。
やはり梅原さんのにしよう、と思った。
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人参である。もう終わりが近い。
大きいのが無いのではないか、と心配して、これも梅原さんに頼んでおいたが、これならこちらのほうが良かったかも、と思ってしまった。

この秋はずいぶんこの畑で作った人参を食べた。サイズはそこそこだがフレッシュ感があり、甘みがあって生で食べてさわやかな人参だ。
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本日の収穫。
このうち、蕪と山東白菜を料理教室用にすることにした。
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あとはサイズや形で出来の良い梅原さんの野菜にしよう(^^ゞ
梅原さんの野菜はどこかの生協などの栽培基準よりごく低農薬であって、少々の虫食いや出来不出来はあるものの総じて大変良い力強い野菜が出来ているので、何の問題も無いだけでなく、むしろよいものである。

と、書いてわたしは、蟠っているもの、について思わずにいられない。

     ※     ※     ※

きれいなもの、見た目のよいものを、料理教室に持っていこうなどとわたしがうじうじ考えているのは、間違っているのではないだろうか。それは現代の流通産業が扱う「商品」の思想をそのまま踏襲しているに過ぎない。

むしろ、少々出来が悪くても、虫食いがあっても、食の安全のためには自ら作ったものを提供して、より多くの人に自産自消または半農半Xの意義を、伝えるのが使命なのではないか、と思ったりする。

加えて、料理教室などでは、当然のように肉や魚が主菜になる。それは「お客さんのウケ」がよく、献立としても見栄えするからであり、また厚労省あたりのたいした根拠もあると思えない、「食生活の指針」などを踏襲しているからだ。
結局、見栄え良く、簡単、便利、というようなことになる。
たとえば食材というものに深くコミットして野菜の力を引き出す、というようなことにはならないのだ…。
野菜を煮るのに、当たり前に動物質のだしを取るのではなく、たとえば蕪からとっただしで蕪を煮る、というような…。

食材というものは、それぞれに力を持っており、その力はそれぞれに掛け替えの無いものだ。それは、人が生きてあることの一回性や絶対性といった掛け替えの無さに相通じるものである。作り手として人は、今ここにこのようにある、唯一なるもの「固有性」として自然に働きかけ、制約されながら、掛け替えの無い存在の自由性や普遍性としての「労働」を実現しつつし、ようやくここにこのようにしかない固有の「成果」を自然から獲得しつくりだす。
わたしたちは、そこに存在の固有の尊さ、命というものの在り難さを含めた「価値」を感じ、感得し得るものだ。(おう、そのような感性が市場社会における「モノ」が「商品」になるための「命がけの飛躍」をも見出す!)

     ※     ※     ※

農民が苗を種苗会社から買い、料理家が食材を市場から買い、喫食者は食事を貨幣で買うことを繰り返すと、そのことは見えなくなる。彼らは主権者のように振る舞い、単に資材や食材や食事を貨幣で調達する。いわば「制度化」された「市場システム」の「主権者」のように思いなし振舞いながら、逆に、自然と命の劇的な存在の現場から、食材の劇的な現場から、食の劇的な現場から遠ざけられ(疎外され)た惨めな存在である。
それは貨幣を媒介とするこの市場社会を貫く生存と意識との転倒した幻想システムとよくつりあっている。

そこでは使用価値と貨幣価値は転倒しており、そのことによって「使用」の一期一会の劇的な存在の自由性や普遍性との邂逅から遠ざかっている。
わたしたちは、いつになったらあるいはどのようにして、「喪われたもの」を個−共同的にまた動的に恢復する(正しくは「し続ける」のだが)のであろうか…。

固有にして共有なるもの、唯一にして普遍であるもの、生起にして継起なるもの、消えつつ生まれるもの…。

     ※     ※     ※

ぶつぶつ妄想の像を口の中で言葉の形象に置き換えながら意気地なく、梅原さんちへ着いた。

きれいに吊るされた軒の、干し柿が迎えてくれた。
ほぉーっと懐かしく見入った。
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梅原さんはまだ20代の若い農家である。
干し柿、まだ時間が掛かるよ〜、2〜3週間かな〜と、見入るわたしに声をかけてくれた。
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わたしは、干し柿の予約を果たし、白菜と大根と人参を引き取って帰った。
頭の中では、すっかり出来上がったふくよかな干し柿を肴に、シャンパンを飲んでいるわたしがいた(^^ゞ


    ※     ※     ※

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posted by foody at 19:56| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Uzumakiファーム2011@宮前~無農薬有機農法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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