2011年11月22日

11月16日のUzumakiファーム 秋枯れと…、モロヘイヤ・おんぶバッタのメスの孤独・早播きの蕪、遅まきの小松菜・蕪の疎抜き、ツルムラサキ、山東白菜

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中三日あいたので、とるものもとりあえず、取り急ぎ畑へ行った。
7時30分到着。
秋の日は、力弱くなり、ほのぼのと事物を見送るように射しかかる。
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見送られるように呆然と力を落としてゆく生き物たち…。

モロヘイヤは、もはや新しい芽を出さず、新しい葉もありはしない。
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おんぶバッタのメスだけが、蹌踉と季節を踏み迷っている。
すでに迅速に飛ぶ力を喪い、一歩歩んではたちどまり、広がってゆくこころとからだの隙間をそろそろとはかっているようだ。

孤影悄然たるもの。死は命の孤独さを露わにする。
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わたしは、マルクスのあの一節を思い出す。

  死は、特定の個人にたいする類の冷酷な勝利であり、個人と類との統一に矛盾するように見える。
  しかし、特定の個人は特定の類的存在にすぎないのであって、特定の存在であるからには
  死をまぬがれない。 ―――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川広訳、岩波文庫

9月11日に播種した蕪は、60日をすぎて、取り残されたものたちが老いて弱り、虫にも食われ始めた。
虫たちは強いものは避け、弱いものに襲いかかる。
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早くとって食べてやらねばならぬ、と思って少し抜いた。
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10月29日に播種したからし菜や小松菜やラデイッシュは、明らかに成長が遅い。
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ひたひたと押し寄せる秋枯れ、のなかに、それでも生き物たちは生きる。
あるいは死の季節に抗して、生きようと欲する。
生の欲望は死に対抗し、したがって自然にも対抗しようとする高慢を含んでいる。
そのような高慢が人間の動的な希望や夢のつまり精神の躍動の淵源である、とすればわたしたちは原基的に自分を裏切る存在だ…。

盛りになった、美しい小松菜の伸びやかな肢体。
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叢生する蕪たち。
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プランターの蕪を5cmを目安に疎抜きした。
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この日の疎抜き菜。
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蕪栽培の楽しみは疎抜き、であろうか。
蕪は「春は苗、夏は芯、秋は茎、冬は根」といわれどこを食べても美味しく、作る期間が長い。
蕪の疎抜き菜は、そのまま食べて美味しい。柔らかくみずみずしく、いつ食べても春の息吹がする、ように思われる。

ラデイッシュの第2期が盛りになり、どんどん大きくなってくる。

このままおいておくと割れてしまうので、採れそうなものは早めに採ってしまう。
赤い色の美しい姿。
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蕪の白い肌も美しい。
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ツルムラサキは、まだまだ元気にわき芽を伸ばしている。
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山東白菜の柔らかで巨大な外葉を少し採った。
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ちょっとずつ、のつもりだったが意外に大収穫になった。
モロヘイヤや、茄子やピーマンはもう終わらせねばならない。
生と死が交錯する畑をいつもよりゆっくりと楽しんだ。、

    ※     ※     ※

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posted by foody at 23:24| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Uzumakiファーム2011@宮前~無農薬有機農法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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