2011年08月16日

8月13日のUzumakiファーム 帰省の出掛けにちょっと水やりに〜類と個と人間的労働

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13日から昨日15日まで新潟の実家へ帰省した。
3日間も水やりを留守にすることはできない。
出発を、「渋滞を避けるため」午後3時ごろとして、途中Uzumakiファームへ水やりにいくことに(^^ゞ

夏空は晴れ上がり、最高気温は34℃の予報だ。
畑へつくと、明るい日差しの中で、風景が白く輝いている。
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この前まで繁茂していた蘚苔類が見事に枯れ落ちて土色になっている(@_@;)
あっという間に自然は姿を変える。
個体的に変える(死ぬ)とか言うレベルでなく、種の姿を変える。

にも関わらず、自然は自然として変わらずに持続しているようだ。
固体が持続するかどうかは問題でない。個体の生き死には、類的自然にとっては意味はない…。

同じように畑の一作物の生死はあっても、畑は畑として持続しているように見える。
しかし、それは類的自然が、「自ずから然るべく」運行して持続しているのとは本質的に異なる。
持続させて行こうとする人間の意思が、「畑」という形で持続するのだ。畑とは「労働」〜「生産」を持続させようとする人間の意思、であり、その自然への働きかけのあらわれである。
個体の生き死には、持続しようとする人間には有意味である。
意思や意識(すなわち意識)は、個体に根ざしており、個体的にのみ有意味である。
なんたること、であろうか。
類と個は、依然として遥か遠くで互いに背を向けているようだ。

にんじんの畝を覗くと、前日枯れ落ちたところがぽっかり空いている。
生き残ったものたちは一応ふさふさしている、かな(~_~;)
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枯れ落ちたものたちの不在は、
私にとって、なにごとか、あるべきもの、の欠落である。

きゅうりの日陰へ避難させておいたエンレイは何とか持ちこたえたようだ(^^ゞ
しかし、すでに土の表面は白く乾いているし、枯れかけた葉はずいぶん傷んでいる。
傷みは傷みとして、認め、受けとめるしかない。自然の中の生命は一回性でありやり直しはきかないし、そのような意味で「受苦的」であり「絶対的なもの(=相対的でない)」として掛け替えが、ない、のだ。
(小林秀雄はこれを、生存=意識された生存=「意識」の絶対性として取り出して、彼の批評の根拠としたであろうか)
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小さいながら、しっかりした本葉を出しているリーフレタス。昨日生き残っていたものはしっかり根も出ているのだろう。青々としている。
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全体にたっぷり水をやり、にんじんやエンレイには二度やり、新潟へと向かった。

次に来れるのは多分16日。
あと二日、持ちこたえろよ〜〜。

     ※     ※     ※

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posted by foody at 16:43| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Uzumakiファーム2011@宮前~無農薬有機農法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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