2011年02月01日

“野菜市”の論理と倫理〜食の奪還を目指して1 自然と食と労働と人間〜マルクスの自然哲学から

ゆるく、深い共通の疎外について

Uzumakiはもっとも低い鞍部のところでは、なんとなく食が大事じゃないかと、という直感を内部にもつ人の集まりである。だから何かをなさねばならないわけでもない。だが何もしないでいるのも自分に後ろめたい。ただ、わたしたちは、この社会の居心地の悪さを感じている。

この「ゆるい共通性」はしかし、わたしたちが生きるこの社会のもっとも深いところから発している、と思われる。

市場社会=資本主義社会において、人々が不可避に感じる自分をなくした感じ(喪失感)が、いわば共通のバックボーンであり、食についてのどうも真正でない感じを身体的直覚として、どうも人類共通の根深い喪失感に通底していそうだと比較的つよく感じ取った人々、である。
あるいはまた、食は人間が生きるうえで根源的な何かであると感じ取った人々である。
表現することは難しくても、自らの直覚的了解に、深い根拠を感じている人々である。

食とは何か、を簡潔に語ることは難しい。それは生命とは何か、人間とは何かを語ることに等しいからだ。

自然(=食)と人間のかかわりの根源

たとえばマルクスはこのように書いている。

  自然の産物の現れ方は、栄養、衣服、燃料、住居など種々雑多だが、
  肉体的存在としての人間は、そのような自然物に依拠しないでは生
  きていけない。人間の普遍性は、実践的には、まさしく人間が自然
  の全体を自分の非有機的身体とする普遍性のうちにあらわれるので、
  そこでは、自然の全体が直接に生活手段であるとともに、人間の生
  命活動の素材や対象や道具になっている。
  自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機
  的な肉体である。
  人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体
  だということであり、人間は死なないためには絶えず自然と交流し
  なければならないということだ。人間の肉体的・精神的生活が自然
  と結びついているということは、自然が自然と結びついているとい
  うのと同じだ。
  人間は自然の一部なのだから。
    ―カール・マルクス『経済学哲学草稿』長谷川宏訳岩波文庫P100

長谷川宏訳の『経済学哲学草稿』を通読すれば事態はとても分かりやすいのだが、長谷川訳といえども部分引用ではマルクスの意図を表すには多量の補足を必要とする。

人間は自然に依拠して生きていくが、食は当然自然のうちに含まれる。
人間の「普遍性」は、人間が自然の全体を自分の「非有機的身体」とすることの「普遍性」にあり、しかも人間は自然の一部である。

「非有機的身体」とは身体的器官ではないが、身体的器官同様に生命に不可欠なもの、というほどのことである。蜘蛛がくもの巣を住まいにも、「道具」にもするようなことを考えれば適切であろうか。人間は全自然・全地球を人間の非有機的身体として生きる(にもかかわらず、人間は自然の一員である)。

自由と理想としての「普遍性」=「類的本質」

「普遍性」とは人間のあるべき本来性といったほどの理解で、大過ないであろうか。人間にはあるべき本来性としての「普遍性」があるということはヨーロッパ的思考の特質であり核心であろうか。
そしてここには「理想」というものが含まれる。
キリスト教以来、とくにドイツにおいては、カントにおいてもヘーゲルにおいても人間とその社会にはあるべき本来性という「理想」があり、それは一つの「体系」のようなものすなわち全体性、または秩序として構想された。
その「普遍性」というものの中身について、(前段で)マルクスは次のように執拗に、とても深く言い切っている。

  人間は類的存在なのだが、二つの点からしてそういえる。ひとつは
  実践的・理論的に、自分の類をも自分以外のものの類をも自分の対
  象とするがゆえに類的存在であり、さらには(といっても同じ事柄
  を別の形で表現したものに過ぎないが)、自分自身を現存する生き
  た類として扱い、自分を普遍的な、したがって、自由な存在とみな
  すがゆえに、類的存在である。
  類的生活の基本は、人間の場合も動物の場合も同じだが、まずもっ
  て肉体的に人間が(動物と同じく)非有機的自然に依拠して生きて
  いる点にある。
   ―カール・マルクス『経済学哲学草稿』長谷川宏訳岩波文庫P99

個々の人間は共通して、単に動物的固体として振舞うだけでなく、「自然」や「人間」を「類」として扱うという「意識」の働きをもつ。そのような「意識」をもつことで、人間は「個人」であることとなり、動物とは違い、「自由」になる。
それはこのように語られる。

  確かに動物も生産はする。蜂やビーバーや蟻は、巣を作り、住まいを作る。
  けれども、動物は自分または自分の仔が必要とするものしか作らない。生産
  が一面的だ。ところが、人間の生産は普遍的だ。動物は目の前の肉体的な欲
  求にしたがって生産するだけだが、人間は肉体的欲求を離れて自由に生産し、
  自由の中ではじめて本当に生産する。動物は自分自身を生産するだけだが、
  人間は自然の全体を再生産する。
   ―カール・マルクス『経済学哲学草稿』長谷川宏訳岩波文庫P99

「自由」とは、ここでは「肉体的欲求」から離れた「意識」や「精神」の「自由」であり、したがってなにごとか「理想」すなわち「普遍性」を目指して、食を得、住まいを作り、芸術などというもの作り出したりする。大事なのは「理想」は個人の内部の理想であるが、同時に他者にも共通の「普遍性」であるというところだ。

類的価値の源泉としての労働と「食」の根源性

ここで、マルクスは生産、すなわち「労働」のなかに人間の「類的存在」としての本質、自然性としての人間の生きる価値の実現であり源泉でもあるもの、すなわち「普遍性」、すなわち自由と理想、を見出し、「労働」価値説、労働疎外論へと赴く。

  人間がその生命活動たる労働の生産物から――人間の類的存在カから――
  疎外されているとすれば、そこからただちに出てくるのは、人間から
  の人間の疎外だ。人間が自分自身と対立するとき、人間に他の人間が
  対立する。人間とその労働、人間とその労働生産物、人間と当人自身
  との関係のありさまは、人間と他の人間との、人間と他の人間の労働
  および労働対象との関係に重なり合う。
   ―カール・マルクス「『経済学哲学草稿』第1手稿4.疎外された労働」
    長谷川宏訳岩波文庫P104

人間の「生命活動たる労働の生産物」に当然、食も含まれる。しかも食は直接に肉体を再生産し労働力を生産する。根源の中の根源といえようか。
その食から、人間が疎外されているとすれば、労働におけると同様にそれは人間の人間からの疎外であり、類的存在からの根源的疎外である。
しかもそれは他者との関係性においても疎外として現れる。

マルクスはその晩年、「ゴータ綱領批判」の中で「孤立して行われる労働(その物的諸条件が前提されるなら)は、なるほど使用価値は作り出すが、富も文化も創り出せない」と書いている。

  
※誤解のないように付記しておかねばならないが、マルクスは「労働」だけが価値の源泉だといっているわけではない。人間は自然に所属するその一部であり、自然は「労働同様に使用価値の源泉」であり、さらに自然こそは「すべての労働手段と労働対象の最初の源泉(ゴータ綱領批判)」だといっている。また「物的富はかかる使用価値から成り立っているのだ!」とも。




食からの疎外、人間からの疎外に抗して

工業化が強いる食からの疎外

食は、食の「工業化=商品化」とともに自然性を離れ、大地や海から離れた化学物質を含むようになり、農薬や添加物により発ガン性や催寄性をもつようになり、食べる人の目に見えないところで、知らない物質で加工され、大量生産大量流通され、価格だけで価値をはかられるようになり、疎隔された疎遠なもの、になった、であろう。
わたしたちは明らかに食から疎外されており、食はよそ者のように冷たい。

他者の関係性をも破壊する食からの疎外

しかもそれは他者との関係性においても疎外として現れる。
目に見える、直に自然と触れる食の直接性、自分で食事を作って食べる直接的有機的な労働生産物でなく、貨幣と交換されるものになったとき、食はわたしたちを離れ、わたしたちは共食共同体としての家族も、生存共同体としてのコミュニティも、根底的に喪ってしまった。

食と関係性の奪還へ

わたしたちは、切断された関係を回復しなければならないと思う。失われた食を人間の普遍性に取り戻していかなければならないと思う。
どう歩めばいいのか、あまりにもちっぽけで無力で無知なわたしたちは踏み迷う。
それでも、なにごとか「実践的活動」が自然との接点、すなわち食との接点、人間との接点ににつながり、自分を取り戻し、食を取り戻し、他者とも自然ともつながる関係性を奪還することにつながっていくのではないか、いくはずである、と信ずべき根拠がある。

わたしたちは、それを、地域に根ざして実践して行こうと、さりげなく決意している、であろう。

     ※     ※     ※

マルクスが、自らの自然哲学を総括している部分を抜書きしておこう。

  生産的生活は類的生活であり、生活を生み出す生活である。生命活
  動のあり方のうちには類の性格の全体が、活動の類的性格がこめら
  れている。そして、活動が自由で意識的であることが、人間の類的
  生活である。
   ―カール・マルクス「経済学哲学草稿」長谷川宏訳岩波文庫P100

生活ということばの美しさ。
生活ということばが人間の全行動をさして、このように美しく深く使われるのに私は感動したものだった。


  動物は、その生命活動と隙間なくぴったり一体化している。動物は
  生命活動そのものだ。たいして人間は、生命活動を意思と意識の対
  象とする。生命活動を意識して行うわけで、生命活動とぴったり一
  致してはいない。意識的な生命活動を行う点で、人間は動物的な生
  命活動と袂を分かつ。そのことによってはじめて人間は類的な存在
  だ。いいかえれば、人間はまさしく類的存在であることによって、
  意識的な存在であり、自らの生活を対象とする存在である。だから
  こそこの活動は自由な活動なのだ。この関係が、疎外された労働に
  よって覆されると、人間は、まさしく意識的な存在であるがゆえに
  かえって、生命活動というおのれの本質を、単なる生存のための手
  段にしてしまう。
   ―カール・マルクス「経済学哲学草稿」長谷川宏訳岩波文庫P100

若きマルクスが、人間を(フォイエルバッハの強い影響下に)「類的存在」と呼んだときの思考は躍動し、人間の生活を(モーゼス・へスの強い影響下に)「生命活動」と呼んだとき人間の全うすべきものが、手にとるように見えていたであろうか。


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