2010年12月23日

港北ミートダイニングその1 基本の思想 12月22日オープン〜スロウフードの新型フードコート〜市場の豊かさから生活の豊かさへ

市場社会のなかに、非市場社会への通路を見出す

2月から企画・プロデュースを手がけてきた、モザイクモール港北5Fのファストフードでなくスロウフードの新型フードコート、港北ミートダイニングが、昨日12月22日オープンした。年末ぎりぎりになってしまった(*_*;

飲食や商業施設における企画・プロデュースとは、マーケティングデザインから業態開発(商品・価格・販売と運営の手法・環境デザイン)、事業主体(テナント)の開発・リーシング、その他宣伝販促・運営まで全般を取り仕切ること、である。

私が目指した、このプロジェクトの基本コンセプトは、「定常型社会(成長を期待しない社会)」(広井良典)と「地域=生存共同体」における「食」のあり方を「外食」という「市場」の中で指し示すこと、である。
それは、市場社会のなかに、非市場社会への通路を見出すようなこと、であり、「豊かな時代」なのにちっとも豊かでない「生活」を豊かにする道筋をつけることである、と思われる。

私たちの近代〜現代市場社会は、貨幣のみを富または豊かさの基準としてモノ的に貨幣的に「豊か」になってきた。私たちももちろん、その恩恵にあずかってきた。しかし今日では市場社会は行き詰まり、大きな転換のときを迎えている。
私たちも、市場社会の豊かさ=貨幣の豊かさが、生活の豊かさとはどうも一致しない部分があることに気づいてきた。

生活の豊かさと市場の豊かさ

生活の豊かさ〜自然性とつながり(協働)に根ざす「使用価値」


生活の豊かさとはなんだろうか。
固体に即して言えば、それは心も体も元気な状態を指すように思われる。市場社会では、経済活動は基本的に個人のギャンブルとして行われるから、リスクの多いデインジャラス社会である。そのストレスは個人の心身を痛めつける。
存在論的に抽象=普遍化して言えば、人間は本来的に自然としての本質において生きる、すなわち「自然性」のうちにありながら、協働して自然に(対象的に)働きかけて富を生み出す。
このとき人間は自然というものに立ち向かうために「協働」する必然があるとともに、自然とも「協働」している。人間は、他者とも自然とも協働する同志的なつながりにおいて生存を保障し、豊かさを獲得する。
(芸術はそのような価値を抽象した表現である。したがって市場社会と相容れないはず、のものである)
またこのとき、富はまだ交換するためのものでなく、自分で使用するためのものである。言い換えれば人間が生み出す価値は、原初的には使用する価値であり、交換価値ではない。生活のための富であり生活の豊かさである。
すなわち、「自然性」と「つながり=協働」に、人間の豊かさはあり、それは経済学的用語では「使用価値」というものである。

市場の豊かさ 〜ギャンブルと幻想(国家と貨幣)による交換価値

一方、市場の豊かさは、貨幣のみによってはかられる。
人間は、生活の豊かさを次第に拡張してきたが、それは同時に「商品」(マルクス)というものを生み出し、増加させるプロセスでもあった。次第に市場というものができてきて拡張され、それが一定の共同文化圏まで拡張されると「国民国家」というものが形成されてゆき、「重商主義」とよばれる時代にいたった。「国家」は共同幻想でありながら、投機したり、つまりギャンブルしたり、競争したり、戦争したりする「主体」であるかのように思いなされた。
この「思いなされる」が共同幻想の成立、ということである。

このとき「国家」というものは一定の市場支配圏を持って成立した。すなわち国家とは貨幣によって計量される一つの統一市場である。したがって「国家」は成立とともに「国家」どうしの間の富の競争が始まり、それは大砲や軍艦を買うことを目指すものであった。
言い換えれば「国家」は他の国家との戦争のために成立し(戦争機械としての国家)、そのため国家経済(これを国民経済と言いくるめる言い方もある)は、戦争のための富の統計としてはかられるものである。

したがって、アダム・スミスもケネーもあれほど貨幣というものを毛嫌いしたにもかかわらず、「国家」の富は、大砲や軍艦を買い、職業軍人を養うための貨幣のみが求められ、したがって国家の富とは貨幣のみによって計られることとなった。
それは今日も続いており、国民経済学における富の統計はGNP、またはGDPと呼ばれる貨幣によって計算された富である。

食を通じて自然性へ帰る、つながり(=地域)を回復する

国民国家に、貨幣にあらわれない生活の豊かさはいらない。自然性に根ざす食生活は豊かではなく、貨幣に換算される工業化・産業化された食生活だけが豊かな食生活である。
人とのつながりで相互扶助する地域性に根ざした安全や安心ではなく、市場において「命がけの飛躍」に挑む自由の結果としての貨幣がが豊かさである。

失われた生活の豊かさを、国民国家は「福祉」行政として、すなわち貨幣として補填することを試みたが、市場が隅々まで浸透し、これ以上の拡大が困難になると、市場社会の原理そのものが行き詰まると、同時に貨幣的福祉国家システムも行き詰った、と言えようか。
また市場社会は自己増殖的に、生活のなかにまで浸透し、家族を解体し、「つながり=協働」を解体した。今個人は、行き詰まった市場社会のなかで、自然性からも、つながりからもばらばらに分断され孤立している。

食は、性や、生理や精神と並んで、身体性=自然性において観念的幻想的であり、観念や幻想であることにおいて身体的自然的なもの、であり人間にとってもっとも原初的な営みの一つである。

わたしは、この根がらみ骨がらみになった食というのものを通じて市場社会のなかに、自然性やつながりへ通じる道筋を見出さねばならぬ、と考えたのである。

市場社会の根なし草から、地域に根ざして市場社会の幻想化圧力、分断圧力と戦うものへ

今日、市場社会にあって、貨幣抜きに生きることの困難は明白である。しかし貨幣にはあらわされない豊かさを大きく志向する食のあり方を、ぎりぎりの市場の秩序の端部で実現することは不可能ではない様に思われた。
それは、自然性というもと、つながり(地域性)というものを大きく孕む食のあり方であり、市場の原理と自然+地域の原理が交錯する場所である。
したがって「商品」は交換価値=価格に対して、使用価値=豊かさが大きく勝っていなければならず、出店者は利益を市場に吸い上げる本部システムの利益拡大企業、とくに大企業であってはならず地域に根ざして地域に貢献する地域への利益還元者でなければならない。
市場社会に漂う根なし草ではなく、地域に根ざした人間として市場社会の幻想化=貨幣万能・国家偏重と戦い、分断化=個人化・孤立化と戦う最前線として、それは構想される。
いや、この言い方では違う。
自然+地域社会と市場社会、使用価値の世界と交換価値の世界は、市場社会システムの行き詰まりによって、敵対するものでなく、融和するものになってきた。あるいは、ならねばならぬ。

今次プロジェクトにおいてもそうであるように、互いに一致しない価値規範を含みながらも持続し継続すために、市場社会はその富をもって、自然+地域社会の復活拡大を支援し、バランスのとり方を模索し、新たな富の形をともに目指さねばならぬ、と書いておこう。
(デベロッパーは内装工事に、やや不相応かと思われる貨幣を投じ、貨幣的に豊かとはいえない出店者にも幾分かの援助をした。見識、というものである、と思う)

     ※     ※     ※

しかしながら、精神(観念・感覚)というものによって、世界を対象的にとらえる人間というものの本性は、奇怪で矛盾に満ちている。
理性で思考しながら同時に感情で行動する。
行動はおおむね、感情の高揚によって行われる。
人間は行動において存在するのであるならば、本質的に感情的に存在する。

人間の作った社会(または共同性)は、市場も戦争も、利害に加えて気分や感情やによって行動にいたる。市場も戦争も偶然によって行動に至る、ことがしばしばである。
また、倫理的な正義において協働的に共同性を形成しながら、あるとき暴力的に反自然的であり反社会的であり破滅的である。
あるいは協働の安定と制約よりも、個人の欲望と自由を望む。あるいはギャンブルを好み、または蕩尽することにおいて再生の希望を感覚する。または、最終的に死滅することにおいて絶対または永遠であろうとする。
(芸術は人間のこういう不可解な観念の動きを捉えたものでもある…)

わたしたちは、市場というものの存在、市場性=命がけの飛躍、という原理に、辟易としながら、しかし価値を見出す、であろうか。

けっきょく、わたしたちはジグムント・バウマンのいうように市場社会の外部に非市場的な価値の世界(コミュニティ)をつくり、これを市場社会と隔離し逃げ場所または安息の地とすること、とするほかないであろうか…。

     ※      ※     ※

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posted by foody at 10:42| 神奈川 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | おいしい店(川崎/横浜/そのほか) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
創造農学研究会、田園講座(2)
told by keiji Yamashiro 2011.1.

自分達が日本でどうやって農業をやっていくのか

 世界の各地を歩いてみての感想ですが、寒冷の極地であっても、空気の薄い高地であっても、人はその条件に応じた農業や漁業をやって生き続けてきたことを実感します。農業で生きる人たちは、好況だ、不況だ、あるいは豊作だ、不作だと言って、賭をしません。愚直にタネを撒き、畑を耕します。人間が自然に立ち向かうことはそうしたものです、それが人間の原点であるとつくづく思います。人間であることをやめない限り、どこにもそこにふさわしい農業の姿があることを知ります。だからもしその地域で、農業がなく漁業がなければ地域がないというのと一緒ということになりますね。

しかし、待てよ。人が自然に立ち向かいながらも自然を大切にして共存する形は地域に生きる人間の本来の生態なんですね。
地域の人が世界の広さを知らず、また世界と経済的に交流していない段階(たとえば日本では鎖国の時期)、グローバル化していない時期には、生きるということは農業をすること、漁業をすることとした。

人知と工業が発達して、機械や動力で食料やエネルギーが増産され、地域地域の間で大がかりに貿易をすることが出来るようになりました。すなわち、グローバルに市場の力で、農産物ばかりではなく農業のやり方や農業をしなくてもすむやり方が世界中に行き渡り、世界には沢山都市が生まれ、人々は生産者であることをやめて消費者となりました。

農業や漁業が、近代化と共に組織化された産業となり、市場と販路を世界(自由市場)に求め始めるようになってからは、生産性が飛躍的に上がったこと、専業的、専作的な、優秀な技術を持つ大規模農業経営者の像が立ち現れてきたこと、そして相場をねらった生産をするようになったことなど、農業に対する見方や定義が動揺し始めました。

市場にすべて任せようという約束で人々が生産をする形になると、トータルには生産の計画とか安定は損なわれるようになり、パーシャルには大もうけをするものも(裏返せば大損をするものの、負けていくもの)が頻出します。個別の経営はうまくいっても農村地域の中で見ると例外であったり、結果的に農村地域が全く変わってしまったりするのです。大の虫を生かして小の虫を殺すということが農村地域にとって良いことなのか悪いことなのか、一つの論点となります。

WTOやTPP(自由貿易)というのは、いまの時代の流行の政治情勢で、農業に限らずすべての産業を市場の原理(基本的には勝ち組である大企業の市場支配の原理)に任せようという、政治的取り決めです。地域の集合体である国家は小の虫を排除するという意味で取引に介入するのです。
しかし、それが、時代の進歩とか進化であるといいきることはできません。ある人はそれを「開国」だといいます。開国とは、世界をどこでも誰でもお金儲けのできる場所にする、そのことで国境の制約をはずせということです。

しかし、世界は同じじゃない、国家だって同じじゃない、産業だって生活の方法だって文化だって同じにはならない、もちろん法律だって同じにならないよという声が、世界的には根強く広がっていますし、政治的な力を持っております。
世界の貿易の仕方の取り決めは必要だけれども、グローバリゼーションだから、法的強制で「開国」をやるというのは通用させないよという力が随分出てきているんじゃないか。

企業としての農業

ところで、貿易を実際にやっているのは国家ではなく企業です。企業は企業の理屈で市場に向きあって動くのです。企業は世界にまたがる大企業もあるし、家族で営む有限会社のようなものもあります。第二に企業というのは競争を通じてお金の力で弱い企業を淘汰しながら栄えていくものです。
株式会社は利益も大きく生むシステムである反面、冷たいお金が人間、時として社会も抑圧する側面がありますので、その弊害を防ぐために、各国では例えば労働法や公正取引法、農業法、銀行法などを持ち、労働や取引などでの弱者を生み出さないようにしているのです。

WTOでああしてほしい、こうしてほしいということを国民を代表した政府が国際交渉に行き、各国政府と取り決めますのは、各国のそういう内部事情を踏まえているはずなんです。
 農家の皆さんが送り出している代議士の数は大変多いことはよく知られていますが、その声が、日本の政府に伝わっているのでしょうか?農家の声をバックにした政府なら国際交渉の場で自分達は困るからこうだと言うべきですね。その前にどうやったら自分が考えていることを伝えていけるのか。どうせ政府は自分たち(農家)と関係ないところでやっているというあきらめ、お上のやることには逆らえないというような時代じゃないのです。TPPについての最近の大新聞の論調は大した論拠も示さないまま、特に農家の声に耳を貸さないまま、日本はこれに参加しないと今後は生きていけないということで完全に一致しています。大昔に大東亜共栄圏という構想があって、軍隊をアジアにばらまいて要所を支配していないと日本は生きていけないという論調が支配していました。その結果はご存じの通りで、新聞記者は誰も責任を取らない体制が今でも続いています。軍事と経済の違いこそあれ、流されやすいのはその時の状況と酷似しています。

農業者の立場でほんとうにそう思うのか、ということを今一人一人が答えを出さないと、本当にやばいことになってしまいます。
現場が声をあげないと、ああ世界はどこでもそうなっているのか、世界の流れなんだな、しかたがないんだで終わりなんだ。

WTOやTPPでどんなふうに決まろうと、皆さんが、地域がある限り、ここで農業をやるということは変わらないよね。そうしたら、俺達はどうするかということを考えることが大事だと思います。
 自分達が農業をやっていくときに、雨が降ったり風が吹いてきたりと環境としてはいろいろ変化すけれども、そこのなかでどういう基準で自分たちの農業をやるかを考えます。要するに自分で基準を持ち、大きなことを考えずに、変な勝負はしないというのがふつうですね。さっき言ったようにどデカイところと大きさで勝負する農業じゃないんだよ。そうじゃなくて、日本は日本の良さ、地域は地域のよさを生かすような農業のやり方をすればいいじゃないのかと。

 日本はカロリーで計算すると、40%しか自給率はないと言う。穀物は27%しか自給していないと言う。これはいろいろ問題はあるんだけれども、カロリーというのは、計算に野菜や果物はほとんど入らない。でも、私たちの生活はそれだけじゃなくて出来上がっている。仮にそれを抜きにしたとしても、需要はすごくある。日本で40%しか作ってないとすれば、60%はよそから来ている。とすれば、60%は作って売れるだけの条件があるということだよね。だって、みんなそれを食べているんだから。
 日本人が食べるものは日本人が作る、そして買ってもらう余地があるわけだから。それをどうしたらできるか。日本の国内市場というのは、非常に大きいんだね。しかも、国際貿易市場に出すわけじゃないから、畑でおじいちゃんが作ったもの、おばあちゃんが作ったものを持っていけば、売れるんだから。買ってもらえるんだから。
Posted by at 2011年01月04日 12:58
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