2010年10月14日

国民国家はどのように廃棄されるか〜尖閣をめぐるナショナリズムと「氷河期世代」の心情と論理

弱くなって来た「ナショナル」な心情

尖閣諸島をめぐる中国漁船の領海侵犯と海上保安庁巡視船との衝突時件をめぐって、またぞろ「強い外交」などという声高のナショナルな感情を主張する声が大きいようだ。
が、どうも力弱く長続きしそうもない。
力弱いが、世論調査では以下のような結果もあるようだ。
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  調査日: 2010年10月8日(金) 〜10月10日(日)
  世帯数:2047 回答数:1077 回答率:52.61%
  少数点第2位以下を四捨五入

NNNはこれを、小沢一郎への検察審査会の強制起訴決定も相俟って、管内閣支持率19%下落と捉えて見出しにした。が、小沢問題への不支持を加味してなお47%の支持があることにわたしは時代の大きな変遷を感じる。
衝突事件発生直後の、政府対応への支持率は確か10%台だった。
相変わらずナショナルな心情と言うものは激しいものだ。
が、そのあわられかたは、強さ激しさにおいて大きく弱まっているように見える。
(石原慎太郎はこれを、きっと、「衰弱」と呼んだりするのであろう)

多く人間は心情に曳きずられて、行動を起こす。
嫉妬は多くの人間に多くの善悪を問わない決断を強いてきた。
革命は論理によってのみではなく、多くはいのちをかけても革命を目指す革命家の倒錯的熱情と、現状変換を求める民衆の不平不満の心情的はけ口として、はじまった。
無論革命後の具体的展望などありはしないのに、である。
人間は、太古から、「いま」の心情的な幸福にみとれて「生」を投企、または投棄、する。
それは、国境と言うものに見とれてクニを作り出す倒錯した人間の共同幻想とよく肖ている。

「氷河期世代」と浜崎あゆみの悲惨と光栄について

われわれの近代は1973年頃から選択消費=ライフスタイルの時代に入りはじめ、1980年頃からは消費資本主義の段階に進み、1990年ころから急速に近代の意匠を廃棄し始め、ポストモダンへと、この頃、大きく舵をきっていたであろう。共同体によって個人が保護される時代から、孤立分断された個人が、自らを主体として自立的に他者と共同するような道筋を求めて、である。
確立された(されざるを得なかった)「個人」は「一瞬の開放」を夢見つつも、「やがて訪れる恐怖」について内省する能力をもつ。

※1998年19歳から20歳になる頃の浜崎あゆみは、「人が(一瞬の開放を)求めやまないのは/一瞬の開放が/やがて訪れる恐怖に/勝っているから」(『trauma』)と歌って、感性主義・心情主義への投企を内省している。
このころの浜崎あゆみは、苦渋に満ちた内省と孤立し分断された絶望と、共同性への再会への希望を歌う青春の詩人であり、そのことが時代を深く写し取っていたことで国民的詩人であった、とわたしは思う。そしてそれは全身をファッションとして「表象」化して「市場」に受け入れられたのだが…。
この世代(1970~1980年ごろ生まれ)には『氷河期世代』などと言うありがたくない言われ方があるが、しかしこの世代の人々は、生きる土台はクニや社会ではなく、分断され孤立した個人の内部にしかなかった、という自覚的認識にいたった最初の世代であるという光栄もある、であろうか。

このクニにおいては3度のバブルの崩壊を経て、2008年ごろ、ようやくアメリカ金融資本主義の自壊によって強いられるようにして覚醒が訪れ、「近代」の呪縛は根底的に崩壊し消え去った、と思われる。
同時に、そのことによってわたしたちは内包するナショナルな心情を捧げるべき現前する「国民国家」を持たない時代にはいった。現代ヨーロッパがすでに1980年代にそうであったように「坂の上の雲」(司馬遼太郎)のそのまた向こうには、「恐怖」が待っていると、内省し得るからである。

現在、とくに『氷河期世代』以降の世代において原共同体的なナショナルな心情は弱まり、あるいはあるのではあるが同時に内省する能力を持つにいたった「個人」が成立し、ニホン地域全体の多数を占めつつあり、個々人は内省を通じて別なものへ通じよう、と試みている、とわたしには思われる。

亡霊となった国民国家から生存共同体へ

国境が現れると、国家が急に成長する。あるいは必要なもののように思われる。
人種問題が起きると急にアイデンテティが問われる。
われわれの不完全な頭脳は、あるいは心情と精神はいつも現在性に曳きずられ、曳きずられながら内省する。
わたしたちはここでも、個と共同とに引き裂かれる。
引き裂かれるが、(危機が深ければ深いほど)わたしたちは遺伝子の命ずるところの、生存を維持する生命原理に立ち戻ろうと内省する、であろう。
国家が現れたとき、引き裂かれたわたしたちの内部では、すでに本質的は失われている国民国家ではない別の生存共同体が求められるであろう。

しかし本質的に廃棄された国民国家は、現実的な社会システムの上では目前の「領土」問題や「主権」問題にであって亡霊のように現れる。
非国民国家=共同体の総連合としての地域大連合政府はまだ成立しておらず、現行の過渡期政府は「国家」の処理、処分について、したがって目前の「領土」問題や「主権」問題についてまだ明確な指針を持たない。
それらは国民国家廃棄にともなって、同様に廃棄されてゆくものだからである。
資本主義市場社会の進行において歴史的な時間差がある「国家」間で国境廃止にどれほどの困難と煩瑣なてつづきを踏まねばならないか、は、先行するヨーロッパ共同体の試行が十分に示してくれている。
が、ヨーロッパは、同時に、国境を廃止することの可能性をも指し示している。
それは自由な諸個人による自由な連合が、なお連合であり続け、個人を無限に受け入れるような生存共同体として成立し続ける可能性でなければならない。
そして、その可能性の具体的な姿は、まだ緒についたばかりで、わたしたちの極東の小島および周辺にはスローガンの断片のみで、まだ像としてすら存在しないのだ、と思われる。


民主党現政権の「弱腰」には時代的社会的根拠がある、と言わねばならない。
(現にヨーロッパは、本質的な歴史意識的には二ホン地域の政府の「弱腰」を「賢明」と支持しなけばならないであろうしそのような意思表示もある。市場社会的には中国地域の巨大市場を失わずに、である)
今日のヒステリックな弱腰批判や人格攻撃のような政治言語はすべて死語である。
死語を語るものは、しかるべく例外なく礼節に見合った死を与えられねばならない。


    ※     ※     ※

※『trauma』につづく『and then』で浜崎あゆみは妙に元気に歌っている。

  不完全なまま
  生まれたボクラはいつか完全なものとなるために
  なんて言いながらlalala…

  悲しみも苦しみも何もかも分かちあえばいいんじゃないなんて
  カンタンに言うけどね そんなことできるならやってる
  いつまでも同じようなところにはいられないと言っていたでしょう
  陽がのぼるまえに二人してこの町出てみよう

もちろん、出ては行かねばならないことは明白になったのだが、行き先はない、のであった。にもかかわらずそこには「希望」のようなものが仮象されねばならなかった。
これはこの時代の困難をとてもよく象徴している、と思われる。


posted by foody at 11:17| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 農・食・状況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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