2010年09月30日

赤染晶子「乙女の密告」〜日常に露出する共同幻想を戯画化し「構造」化する新しいコトバの力 『文芸春秋』9月号

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乙女の密告.jpg

「曖昧さ」が生み出す排除と差別と,
アイデンテティの構造を日常の中に描き出す


赤染晶子さんの作品である。
語りにくいし失礼にもあたるが、まず、すごい名前だと思った。名前を見ているだけで照れくさい。(わたしもそう言われることがあるのでそう思うかのもしれないのだが…(^^ゞ)直接に高名な歴史的人物とか自然とかを連想させ、、またはその命名の意匠を連想させられたりするような、気がして、また、秘しておくべき内実が暴露されたような、しかし否定できないような気がするのである。
作品のタイトルが「乙女の密告」と来るので、ますます照れくさくて、しかも作者の言葉欄に「血を吐いて」などとあると、あまりの直截さにたじろぎ、読まずにおこうか、と何度も思って10日以上放っておいた。

あまり根拠なく、源氏物語のような、大恋愛小説のように恐れていたのである。

しかしこの「照れくささ」はこの人の作品、とりあえずこの作品「乙女の密告」が描く世界に、ある意味では本質的にかかわっているようにも思われる。
なんら実体を意味しない「記号」である名前から、照れや恐れにいたる人間の感情の不思議さは、無意味から始まる区別と差別と排除にも通じるからである。

改めてみてみよう。
この作品は日常の裂け目に露出する「共同幻想」の構造を、まっすぐにきわめて論理的に剔抉しようとする現在の社会的思想的課題に取り組む思想小説である。これを短編にともかくも仕上げることは作者の力量をうかがわせる。
また敢えて「日常」をかるく、戯画化して扱うことの成否は、ことにこの作品のような短編小説では小説のできに直結するが、その点ではいくらか譲っておかねばなるまい。

作品の物語は、アンネ・フランクらユダヤ人への偏見と差別の構造をなぞりながら、京都の大学で語学を学ぶ女子学生たちの中の差別と排除の発生を同じようになぞる趣向だ。それは「無意味」な共同体がもたらす「排除」から、一人ひとりのアイデンティを覚醒させる「構造」にいたり、ついには一人ひとりのアイデンテティを問うにいたる物語でもある。

たとえば、風変わりな偏執狂的な教師バッハマンは学生たちを「乙女」と呼ぶ。教材に「乙女」に人気のある『ヘト・アハテルハイス』(アンネの日記のオランダ語の原題)を使っているからであって女子学生たちが「乙女」と呼ぶにふさわしい、からではない。すでにそのことによって、曖昧な「乙女」の意味作用をめぐる漣は立つ。「乙女」には確たる定義はなく、はなんなのか曖昧で不明で気恥ずかしくなるようなコトバだからである。
主人公みか子は「乙女の皆さん〜」と呼びかけられて、真っ先に手を挙げるような「乙女」の代表的存在で(あろうとするひとで)ある。それゆえ主人公にふさわしい。なぜなら、真摯に「乙女」であろうと努める精神だからこそ、些細な出来事の連続であっても共同体内部に立つ漣によって翻弄され、次第に自らの内実=乙女とはなにか、ここにこのようにしてある自分=アイデンテティとは何かと言う日常の裂け目のような問いを自らに発せざるを得ない存在だからだ。
「神様の落としていった荷物」を背負ってしまう人、であり共同体の外から共同体を見る「眼」をもつ人である。

池澤夏樹が言うように定義のないコトバには外部の力が「実体」(のようなもの)として入り込む。ここでは「うわさがコトを決めていく」。つまり共同幻想としての「乙女」が成立するコトによって個人の内心の「乙女」は抑圧され外部へ、「法」=共同幻想の外へとおいやられて行く。

その辺の事情は、バッハマンが「無意味に」分類した「すみれ組」と「黒ばら組」においてもっと明白である。いったんあるグループ(共同体)に強制的であれ名辞的にであれ、分けられてしまうと、ただの仮象(像)にすぎなかったものが急速に実体化し、個人を制約し疎外し、ついには「排除」にいたるのある。
  
   みか子は麗子様の隠れファンだ。だれにも秘密だ。恥ずかしい。
  貴代にも隠している。麗子様は黒ばら組のリーダーだ。それだけ
  でも、すみれ組のみか子にとっては背信行為なのだ。―P390

   麗子様にバッハマン教授との黒いうわさが流れた。乙女らしからぬ
  ことをして、スピーチの原稿を作ってもらっているのではないか。
   ―P395

曖昧な「うわさ」のようなものこそ、仮象を実体(のようなもの)に転倒してゆく幻想装置である。

  「麗子様、不潔やわ……」
  最初はすみれ組の百合子様が眉をひそめただけだった。

  うわさは少しずつ広まった。乙女たちはスピーチの練習よりも
  熱心に噂を囁きあったのだ。乙女とはとにかく喋る生き物なのだ。
  「えー、信じられへんわー。不潔やわぁ」
   これが乙女の決まり文句だった。乙女とは信じられないと驚いて
  誰よりもそれを深く信じる生き物だ。―P395

このようにして噂は信仰を生み、ついには実体へと転倒されてゆく。

差別に加担するものは、アイデンテティを安堵され、差別を疑うものはアイデンテティを喪う。自分は、なにものであるか、と自分に問うというシジフォス(シーシュフォス)にも肖た不条理の問いに我が身を焦がすことになる。

人間が生きること、は罪深い。
生きていることと、意識する生き物であることにおいて二重に罪深い、であろう。

そして共同性はあるとき急速にあらゆる疑義を振り払い、自己増殖して世界の主人公(主なるもの)として君臨する。

  とうとう恐るべき事態になってしまった。麗子様が黒ばら組
  から追放されてしまったのだ。組を追放されるなど、乙女に
  とって生存にかかわることだ。乙女とはトイレさえ群れをな
  していく生き物なのだ。―P396  

バッハマンは学生一人ひとりに「いちご大福とウィスキーのどちらが好きか」という「無意味」な質問をして、全員を無意味に「いちご組」と「黒ばら組」に振り分けたのだった。が、無意味であるほどに有意味なことはない。それはどのようにも変容するからだ…(それは、宗教に良く肖ている、貨幣に良く肖ている、または言語によく肖ている、または国家に良く肖ている…)。

些細ないくつかの「無意味」な出来事から主人公みか子とその周囲の学生仲間たちの日常は繰り返し、漣を立てるように動きながら時に大きな疑惑をめぐって立場や利益を共有する「共同体」を生み出し、したがって排除されるあわれなもの=スケープゴート=生贄、を生み出してゆく。

(スケープゴートは抹殺されるものばかりでなく、有用なものも多い。このクニの歴史では、社会に、つまり支配共同体に有用なものである場合には次第に様式として外部化され、これを天皇家が保護することで、重層的な支配構造(支配者層と最底辺からともに支持される)を保持してきた、かもしれない)

そうしたプロセスを正面から取り上げ、現代的に軽薄に、物語として描き出すだけでも十分に今日の純文学作家としての役割をはたしているだろう。十分に「剛直」な試みといえるのではないか。

しかしここでは、麗子様は、「乙女」の群れ=生存共同体から力強くも、自立することを択び物語は危うく、まことに危うく「日常」の枠組を救い出す。

  「みか子、心配せんでええんよ。あたしが好きなのウィスキーでも、
  いちご大福でもない。ストップウォッチやねん。あたしの場所は
  すみれ組でも黒ばら組でもない。マイクの前だけやねん」―P396

このあたりは、構成がやや図式的に過ぎるかと思われ、作り物てきなうそ臭さを感じさせる難点ではあるだろうか。
しかし、読者は、安堵して(何に安堵したのかはまた別の問題として扱われねばならない)次の「漣」の顛末を、漣に翻弄される人々の様やそれらが織り成すあや、を期待することとなる。

そして漣は次第に深く大きくなり、振り子のようにみか子に跳ね返って、作品はさらに中心的な主題的「構造」へと進み、差別又は排除の構造とアイデンテティの構造との、密接不可分な重い問いとして集約されていく…。

     ※     ※     ※  

女子学生間の些細な日常生活上の「排除」の構造と、アンネ・フランクらの差別され排除され虐殺されたユダヤ人に対する「排除」の構造の本質に変わりはない。ただ後者には固有の長い長い歴史的経緯があり、民族全体を対象とする規模の大きさがある。に、過ぎない、とこの文脈では書き添えておこうか。

「太陽の季節」というような無反省な風俗的通俗小説しか書いたことのない、石原慎太郎がこれをまったく理解できないのは、正しい。

戦争は非日常として現れ、人間を数として大量虐殺するが、日常生活は「日常」のうちに無名のものとしてのたくさんの生を殺し、さらには戦争をも生み出すのだ。

コトバの力

赤染晶子は言葉の退却戦を戦う作家だ、とわたしには思える。
意識的に構成されたプロットに、意識的に使われる関西弁の軽薄そうな日常会話の話語と、簡潔で文速度の速い語りの部分の論理的な書き言葉(文語)を使い分ける。

     ※     ※     ※

村上龍と宮本輝が、ユダヤ人問題を扱う、扱い方に異和を唱えるのは奇妙な印象だ。
ユダヤ人問題は聖なる高貴な課題で、女子学生の些細な日常と同列でない、と考えるのはどこにその根拠があるだろうか。村上は「好み」といい、モラリストぶりを発揮している。
宮本はみか子が自らのアイデンティをアンネ・フランクのアイデンティに重ね合わせて「アンネ・フランクはユダヤ人です」と、いわば内的に重層的に構造的に「密告」するラストシーンを、結果として「アンネ・フランクを密告したのはアンネ自身だと結論付けているように読める作りに「正しい、正しくないの次元とは別の強い抵抗を感じて」と書いている。
宮本は、あえて誤読している印象だが、しかし、そのようにも読める、と言うのはこの作品の弱点ではあるかもしれない。



posted by foody at 09:58| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分のための読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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