2010年07月24日

用語の平易さから日本語の美しさまで〜長谷川宏新訳カール・マルクス『経済学・哲学草稿』2

経哲草稿 長谷川宏.jpg

国民文庫版と比べる
これまで、わたしが一番よく読んだ『経済学・哲学哲学草稿』で、現在も所持しているものは、大月書店国民文庫版のものである。
P1070376.JPG
藤野渉(ふじのわたり)訳。
初版は1963年3月15日、わたしがもっているものは、1974年3月5日の第19刷だ。よく売れていたのだな。

とにかく晦渋で読むのに骨が折れた。
傍線やメモで真っ赤になっているページも多い。
だがいま見ると、それらは長谷川宏版があれば不要であったと言えそうな、重層する用語についてのモノであったり、複雑な言い回しについてのものが多い。

一つの段落の中で用語が微妙に重層・異動したり、言い回しが複雑であったり皮肉が効いていたりであったりするわかりにくさはもともとのマルクスの文章がそうなのであろう。
また当時のニホンの学的水準、政治的状況の中では、原文に忠実な翻訳こそが求められたであろうから、日本語として達意の文章は求めるべくもなかった、と言うことであろうか。

藤野渉は京大出身で名大で教鞭をとった。同氏が翻訳した中公クラシックスのヘーゲル『法の哲学』も所持しているが、こちらははるかに整理された読み良い文章である。

用語の平易さは、明晰と正確に繋がる

わたしは2009年、共同幻想論3 マルクスの普遍的と受苦的で引用している。

  人間は直接に自然存在である。自然存在として、しかも生きた自
  然存在として、彼は一方では自然的諸力、生の諸力を備えており、
  一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼の中に諸々の素質や
  堪能性として、衝動として現存している。
  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在である。
   (藤野渉訳『経済学哲学草稿』P222 第三手稿「ヘーゲル弁証法および
    哲学一般の批判」)

第一文の「直接に」の意味が良く分からない。
第二文の「自然的諸力、生の諸力」の「諸」が分からない。
同じく第二文の「堪能性」が分からない。
同じく第二文の「現存」が分からない。
とこんな調子である。
本当は「分からない」のではなく、すんなりと飲み込めないだけ、ということなのだが、長谷川宏版から同じ箇所を引き、比べて見るとその辺の事情がはっきりする。

  人間はそのまま自然の存在である。自然存在――生きた自然存在――と
  して、人間は、自然の力ないし生命力を備えた、活動する存在であって、
  この自然力ないし生命力は、人間のうちに素質や能力として、また、衝
  動として実在する。
  その一方、自然な、肉体をもった、感覚的な、対象的な存在である人間は、
  動物や植物と同様、外からの力を受ける、制約された、限定された存在
  である。
    (長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』P185〜186)

すとんと、食べ物が胃の腑におちるように、わかるとは、こんなことであろうか。

  人間は直接に自然存在である。(藤野版)
  人間はそのまま自然の存在である。(長谷川版)

「直接に」は日常語の用法と異なっている言葉を使ったためマルクスの意図も読み取りにくく、哲学的な意味のありそうな漢語の術語かと思われ、何が言いたいのか判断しにくく曖昧なものが残る。
しかし長谷川訳の「そのまま」を読めば、「直接的に」は「無媒介に=あるがままの姿で」ということで、たいした述語的意味はなかったのである。

同様に「自然的諸力、生の諸力」の「諸」もたいした意味のない、日本語としては不適切な訳語と言わねばなるまい。原文原語に忠実であろうとして、または当時の歴史的学的な環境から、意味ありげな格調の高そうな、しかし定義のない曖昧な、用語法をとってしまったということであろうか。

普通に文章を書いていても、意味ありげな漢語を選択したがために、かえって言いたいことがあやふやになり、誤読の余地を作ってしまう、ということは、良くあることだ。
用語の平易さは、明晰かつ正確に通じる、ということか。

つづく、第二文の後半を並べてみる。

  一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼の中に諸々の素質や
  堪能性として、衝動として現存している。(藤野版)
  活動する存在であって、この自然力ないし生命力は、人間のうちに素質
  や能力として、また、衝動として実在する。(長谷川版)

ここでも、活動「的」という漢語的な用法と、活動「する」という和語的な用法では、平易に見える和語的な後者のほうが曖昧さがなくすっきりと読める。
「堪能性」も日常的な用法でなく、訳者の労はわかるがとっつきにくい。
「堪能する」とは、はなはだしくよく感じ行う事であって、その結果ものごとに十分に満足する、という程のことになる。また「堪能だ」とははなはだしくよくものごとを行うことができる状態であって、技術や学問に習熟して能力の高いことをあらわす。つい、どういうことかと、考えることになり、たぶん後者の意味だな、と推定する作業を強いられる。
これを、単に「能力」と訳し、さらに「諸々」を省略し、「現存」を「実存」とした長谷川の踏ん切りに敬意を表するべきか。

結果として、長谷川訳は平易で読みやすく、誤解の余地が少ない、と言えるだろう。
逆に藤野訳は全体として晦渋かつ曖昧さを多く残して、翻訳としてはとても不適切な部分が多いが、「堪能性」などという用語にはある種の詩的なロマンが感じられる、といっておこう。

「平易の美」と晦渋な「詩的ロマン」

次に第三文を並べてみる。

  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在である。(藤野版)

  その一方、自然な、肉体をもった、感覚的な、対象的な存在である人間は、
  動物や植物と同様、外からの力を受ける、制約された、限定された存在
  である。(長谷川版)

藤野訳はやはり、漢語、特に哲学用語が多く一語一語に引っかかりやすい。「自然的」も「身体的」も「感性的」も、わたしは一つ一つすべて引っかかり難行した。
長谷川訳は不要な哲学的術語を避けて誤解の余地すくなく、日本語として文句なくすっきり美しい。

ここで「用語」として、重要なのは「対象的」というマルクス用語だけである。長谷川はこれをマルクスの重要な術語と認定して使って入るように見える。(後に続く部分でマルクスは「対象的」と言うことを、きわめて深い人間的本質としてあざやかに描き出し、定義している)

     ※     ※     ※

生硬であって、けして完成度が高いとは言えない藤野訳だが、一点、わたしが救い出したいところがあるとすれば、藤野訳の「受苦的」という言葉に、やはりある種の詩的ロマンを感ぜずにはいられない。
あるいは、このことばに惹かれて、わたしは、青年期のわたしのマルクス像を、晦渋な哲学用語から、詩的な感性的な、感情をもつ生きたマルクスへと
立ち上がらせた、かもしれない。

しかし、こんな読み方は邪道であって、かつて荒川洋治が第二詩集「水駅」でうたっていたように、「国境、この美しいことばに見とれて、いつも双つの国は生まれた」のである。
今日ではすでに無用となった権力や支配や疎外や共同幻想やを、人々が求めたからこそ、近代という時代ははそのような無用なものたちを生んだ、であろう。

心して、詩的ロマンではなく長谷川訳の「平易の美」をこそ「堪能」するべきである。

     ※     ※     ※

カール・マルクス著長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』
光文社古典新訳文庫
2010年6月20日第1刷648円+税


posted by foody at 19:30| 神奈川 ☀| Comment(0) | 自分のための読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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